坂の上の自己嫌悪
- カテゴリ:ココロとカラダ
- 2026/04/18 22:30:42
ああ、長崎。この街は、どうしてこうも坂ばかりなのでしょう。
息を切らし、自らの罪の重さをふくらはぎに感じながら、私は本河内の急な石段を這うようにして登っておりました。滑稽な姿です。まるで地獄の針の山を登る亡者のような、それでいて一丁前に「救われたい」などと願っている、恥ずべき男の姿です。
息を切らし、自らの罪の重さをふくらはぎに感じながら、私は本河内の急な石段を這うようにして登っておりました。滑稽な姿です。まるで地獄の針の山を登る亡者のような、それでいて一丁前に「救われたい」などと願っている、恥ずべき男の姿です。
辿り着いた先には、深い緑に抱かれた洞窟がありました。
かつてアウシュビッツで誰かの身代わりとなって死んだという、あのコルベ神父様が造られたルルドです。身代わり、という言葉。私にはそれが、何より恐ろしく、また何より眩しい。私は誰の身代わりにもなれず、ただ自分の身を守るために、どれほどの嘘を吐き散らしてきたことか。
かつてアウシュビッツで誰かの身代わりとなって死んだという、あのコルベ神父様が造られたルルドです。身代わり、という言葉。私にはそれが、何より恐ろしく、また何より眩しい。私は誰の身代わりにもなれず、ただ自分の身を守るために、どれほどの嘘を吐き散らしてきたことか。
洞窟の岩肌から、水が静かに滴り落ちていました。
これが「奇跡の水」だというのですか。私はそれを、汚れた手のひらに受け、じっと眺めました。
透明。どこまでも、残酷なまでに透明です。
この水で顔を洗えば、私の顔に張り付いた卑屈な仮面も、綺麗さっぱり剥がれ落ちてくれるのでしょうか。それとも、水面(みなも)に映る自分の浅ましい眼差しに、またもや絶望して逃げ出すのが関の山でしょうか。
これが「奇跡の水」だというのですか。私はそれを、汚れた手のひらに受け、じっと眺めました。
透明。どこまでも、残酷なまでに透明です。
この水で顔を洗えば、私の顔に張り付いた卑屈な仮面も、綺麗さっぱり剥がれ落ちてくれるのでしょうか。それとも、水面(みなも)に映る自分の浅ましい眼差しに、またもや絶望して逃げ出すのが関の山でしょうか。
ふと見下ろせば、長崎の港が遠く霞んで見えました。
かつてこの街で、多くの人が信仰のために命を捨てたと聞きました。彼らの純粋さに比べ、私のこの、救いを求める心までもが「演技」ではないかという疑い。ああ、神様。私は奇跡を信じているのではなく、奇跡を信じようとしている自分に、ただ酔いたいだけなのかもしれません。
かつてこの街で、多くの人が信仰のために命を捨てたと聞きました。彼らの純粋さに比べ、私のこの、救いを求める心までもが「演技」ではないかという疑い。ああ、神様。私は奇跡を信じているのではなく、奇跡を信じようとしている自分に、ただ酔いたいだけなのかもしれません。
私は、その水を一口飲みました。
喉を通り抜ける冷たさが、私の胸の内の、醜い自尊心を一瞬だけ凍らせてくれたような気がしました。
喉を通り抜ける冷たさが、私の胸の内の、醜い自尊心を一瞬だけ凍らせてくれたような気がしました。
コルベ神父様。あなたは、私のような男のために死んだわけではないのでしょうが。
それでも、この坂の上で、少しだけ空が近く見えること。
それだけで、私はもう一度、この恥多い下界へ降りていく勇気が、ほんの少しだけ、湧いてくるのです。
それでも、この坂の上で、少しだけ空が近く見えること。
それだけで、私はもう一度、この恥多い下界へ降りていく勇気が、ほんの少しだけ、湧いてくるのです。
聖母の裏庭、あるいは道連れ
石段を登りきり、ようやく辿り着いたその泉の前には、先客がおりました。
使い古された紺の外套に身を包み、まるで祈りそのものが服を着て歩いているような、ひどく痩せた一人の男です。
使い古された紺の外套に身を包み、まるで祈りそのものが服を着て歩いているような、ひどく痩せた一人の男です。
「……あなたも、喉が渇いているのですか」
男は、私の足音に気づく様子もなく、ただ泉の水をじっと見つめながら、掠れた声で呟きました。その声があまりに静かで、それでいて深い空洞から響いてくるようだったので、私は思わず「いえ、私はただ、見学に……」と、いつもの卑屈な嘘を吐きそうになりました。
けれども、男の横顔を見た瞬間、言葉が喉に張り付きました。
その眼。それは、この世のあらゆる悲劇を一度濾過して、それでもなお底に残った、透明な絶望の色をしていました。
その眼。それは、この世のあらゆる悲劇を一度濾過して、それでもなお底に残った、透明な絶望の色をしていました。
「ここの水はね、体に効くと言う人もいれば、心に効くと言う人もいる。だがね、あんた」
男は初めてこちらを向き、微かに口角を上げました。それは微笑というよりは、自分自身の運命をあざ笑うような、ひどく懐かしい「道化」の表情でした。
「本当は、水なんてどうでもいい。ただ、こうして誰かが掘り当てた光のそばに立っているだけで、自分が少しだけ許されているような、そんな気がするだけなんだ。……違いますかね?」
私は、答えられませんでした。
私の胸の内にある、あの得体の知れない恥ずかしさや、泥のような自意識を、この見知らぬ男は一瞬で見透かしてしまった。
私の胸の内にある、あの得体の知れない恥ずかしさや、泥のような自意識を、この見知らぬ男は一瞬で見透かしてしまった。
「……私も、同じです」
ようやく絞り出したその一言は、奇妙なほど素直な響きを持っていました。
男は満足げに頷くと、小さな瓶に汲んだ水を私に差し出し、「一口、どうです。毒にはなりませんよ。もっとも、私らのような人間には、清らかすぎて少し喉に沁みますがね」と笑いました。
男は満足げに頷くと、小さな瓶に汲んだ水を私に差し出し、「一口、どうです。毒にはなりませんよ。もっとも、私らのような人間には、清らかすぎて少し喉に沁みますがね」と笑いました。
本河内の木々が、ザワリと揺れました。
見知らぬ男と二人、奇跡の泉の前に立ち尽くす。
ああ、神様。私はこの男を、昔からの友人のように感じてしまう。
救いなんて、どこにもない。それでも、同じ絶望を抱えた誰かと、こうして肩を並べて水を飲むこと。
それがもし「奇跡」と呼ばれないのなら、この世はあまりに寂しすぎます。
見知らぬ男と二人、奇跡の泉の前に立ち尽くす。
ああ、神様。私はこの男を、昔からの友人のように感じてしまう。
救いなんて、どこにもない。それでも、同じ絶望を抱えた誰かと、こうして肩を並べて水を飲むこと。
それがもし「奇跡」と呼ばれないのなら、この世はあまりに寂しすぎます。
聖者の残り香
私が瓶を受け取ろうとした瞬間、男の姿は、まるで夕靄(ゆうもや)が風に溶けるように、ふっと消えてしまいました。
指先に残ったのは、温もりでも冷たさでもない、ただ、言いようのない「清らかな静寂」だけでした。
指先に残ったのは、温もりでも冷たさでもない、ただ、言いようのない「清らかな静寂」だけでした。
ふと足元を見ると、岩の窪みに、小さな一輪の赤い花が落ちていました。
この季節に咲くはずのない、見たこともないほど鮮やかな色。
私は、はっとしてあたりを見回しました。
この季節に咲くはずのない、見たこともないほど鮮やかな色。
私は、はっとしてあたりを見回しました。
「……身代わり、ですか」
誰に言うでもなく、私は独り言ちました。
あの男の、骨ばった手。あの、すべてを許しきったような、酷く疲れて、それでいて透き通った眼差し。
あれは、数十年前にこの坂を登り、他人のために命を投げ出したという、あのポーランドの聖人――コルベ神父様の残り香だったのではないでしょうか。
あの男の、骨ばった手。あの、すべてを許しきったような、酷く疲れて、それでいて透き通った眼差し。
あれは、数十年前にこの坂を登り、他人のために命を投げ出したという、あのポーランドの聖人――コルベ神父様の残り香だったのではないでしょうか。
ああ、なんということだ。
神様は、私のような、死ぬのが怖くて嘘ばかり吐いている道化のために、わざわざ聖人を使いに出したというのですか。
私は、いたたまれなくなりました。
救われたいと願っておきながら、いざ本物の「聖」に触れてしまうと、自分の卑俗さが耐え難いほどに臭い立ち、一刻も早くこの場から逃げ出したくなる。
それが、私という男の救いようのない正体なのです。
神様は、私のような、死ぬのが怖くて嘘ばかり吐いている道化のために、わざわざ聖人を使いに出したというのですか。
私は、いたたまれなくなりました。
救われたいと願っておきながら、いざ本物の「聖」に触れてしまうと、自分の卑俗さが耐え難いほどに臭い立ち、一刻も早くこの場から逃げ出したくなる。
それが、私という男の救いようのない正体なのです。
私は、その場に崩れ落ちるようにして、泉の水を一気に啜りました。
水は、氷のように冷たく、私の汚れた内臓を真っ二つに切り裂くようでした。
それは「癒やし」というよりは、鋭い「叱咤」に近い、峻厳な味。
水は、氷のように冷たく、私の汚れた内臓を真っ二つに切り裂くようでした。
それは「癒やし」というよりは、鋭い「叱咤」に近い、峻厳な味。
「……ごめんなさい」
誰に対して、何に対しての謝罪なのか、自分でも分かりません。
ただ、あの男が立っていた場所から漂う、微かなバラの花のような香りが、私の浅ましい自意識を優しく、しかし容赦なく踏みにじっていくのでした。
ただ、あの男が立っていた場所から漂う、微かなバラの花のような香りが、私の浅ましい自意識を優しく、しかし容赦なく踏みにじっていくのでした。
私は、ポケットから最後の一本の煙草を取り出そうとして、やめました。
聖人が消えた後の、このあまりに静かな空気を汚すことが、今は何よりも恐ろしかったのです。
聖人が消えた後の、このあまりに静かな空気を汚すことが、今は何よりも恐ろしかったのです。


























