Nicotto Town ニコッとタウン

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湖畔の宿 ――記憶の淡い領土にて


窓をひらけば あかるい風の帯が
見知らぬ季節の つぶやきを運んでくる
僕はただ 藍色の湖面をみつめて
遠い日の約束のように 椅子に深く沈んでいる
さざなみは 銀色の鱗(うろこ)をきらめかせ
古い手紙の 行間を濡らしてゆくようだ
昨日の僕が ここに置き忘れた言葉を
いまは名もなき 小鳥たちがついばんでいる

しあわせは いつも雲のゆくえに似ている
掴もうとすれば 指の隙間をすり抜けてゆく
かつて僕たちが 夢みたあのあかい屋根の家は
いまも木立の向こうで ひっそりと眠っているだろうか
「忘れてしまえ」と 風が低く囁くけれど
忘却は 僕にとって甘やかな休息にすぎない
透明な水底(みなそこ)に 沈んだ思い出の礫(つぶて)が
夕陽を浴びて あえかに光を放っている

ああ このしずかな宿の 薄暗い廊下には
だれもいないはずの 足音が響いている
それは僕自身の 幼い日の幻影(かげ)なのか
あるいは もう帰らないひとの 優しいため息なのか
パステルで描かれたような 空のひろがりが
次第にすみれ色の ヴェールに包まれてゆく
僕はペンを置き まだ白いままの紙に
消え入りそうな 祈りのひと節を書き記す

夜が来れば 湖は鏡となって
また新しい 孤独を映しだすだろう
星たちは 冷たい火を灯しながら
僕の眠りを 静かに守ってくれるだろう
さよなら 今日という名の 美しい幻
僕はまた 夢のなかで君に会いにゆこう
風が止み 世界が深い藍に沈むまで
僕はここで やさしい音楽を聴いている

#日記広場:小説/詩




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