Nicotto Town ニコッとタウン

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ライラック・ワイン

冷たい雨が、オフィスを兼ねた安アパートの窓を叩いている。
ネオンの灯りが、割れた硝子のように床へ散らばっていた。
机の上には、埃をかぶったバーボンのボトル。
そして、決して開けることのない、紫色の古いラベルの瓶。
「ライラック・ワイン」
お前はそう呼んで、悪戯っぽく笑っていたな。
あの春、街外れの古い樹の下で、お前は風に揺れていた。
むせるような甘い香りと、どこか冷たい夜の空気。
それがお前の匂いだった。
トレンチコートの襟を立てた俺の胸に、お前は静かに頭を預けた。
「このワインを飲むとね、世界が優しくなるの」
お前の声は、ニーナ・シモンが歌うブルースのように低く、切なく、俺の耳の奥に溶けた。
タフでいることが、この街で生き残る唯一のルールだった。
涙を流す奴から死んでいく、そんな薄汚れた裏通りだ。
だから俺は、お前の震える肩を抱きしめることさえ躊躇(ためら)った。
愛なんてものは、銃弾一発で弾け飛ぶ幻だと信じ込んでいたから。
だが出会ってしまった。
抗えないほど深く、お前の瞳という底なしの沼に。
それなのに、なぜ神はお前を連れ去った?
冷たいアスファルトの上、お前の身体から体温が消えていくのを見た時、
俺の心は、二度と直らない機械みたいに音を立てて壊れた。
お前の血の色は、あの夜に見たライラック・ワインよりも、ずっと、ずっと赤かった。
「泣かないで」
それがお前の最後の言葉だった。
だから俺は泣かなかった。
歯を食いしばり、血がにじむほど唇を噛み締め、感情を殺した。
男が泣けば、お前が残した最後の願いを裏切ることになるから。
それから何年が過ぎただろう。
俺は今も、あの夜の霧の中から抜け出せずにいる。
どれだけ強い酒を煽っても、胸の奥の焼け付くような痛みは消えない。
お前のいない世界は、色彩を失った古い映画のようだ。
手元にあるのは、お前が遺したライラック・ワイン。
これを一口飲めば、狂気と引き換えに、お前の幻影に逢えるという。
理性が、俺の耳元で「やめておけ」と低く警告する。
だが、もう限界だ。
トレンチコートを脱ぎ捨て、俺は静かにボトルの栓を抜いた。
部屋中に広がる、あの懐かしい、狂おしいほどの甘い香り。
グラスに注がれた紫色の液体は、お前の涙のようにも見える。
「なぁ、約束を破っていいか」
グラスを唇に運ぶ。
喉を灼く酒精とともに、堰(せき)を切ったように記憶が溢れ出す。
お前の笑顔、お前の髪の感触、お前の温もり。
そして、あの日からずっと凍りついていた俺の目頭が、熱く、熱く、崩壊していく。
視界が歪む。
ボロボロのソファの向こうに、お前の細い人影が見えた気がした。
俺の頬を伝うのは、雨じゃない。
生まれて初めて流す、血よりも濃い、男の涙だ。
「やっと、逢えたな……」
俺はグラスを落とした。
紫色の液体が床に広がり、俺はただ、お前の幻に向かって、声を上げて泣き続けた_

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