Nicotto Town ニコッとタウン

スマホ版あります♪



焼け野原のうた


I
あの日 すべてを奪ひ去つた爆風のあとで
世界はただ 灰色の沈黙に包まれてゐた
幼い母と妹が 奇跡のように踏みしめた地面は
かつての緑の森も 教会の影も失つて
それから数日が過ぎた あるひかりの午後のこと
硝煙の残る瓦礫のなかに まぼろしのやうに
気高く 美しい親子が佇んでゐた
あまりに過酷な地獄の底で そこだけが白く光るやうに
娘は静かに ひとつのうたを歌ひはじめる
それは涙のやうに清らかな 祈りの調べ
「お豆腐をください どうか私たちに恵んでください」
その歌声は 崩れた聖堂の鐘の音のやうに
ただ がらんどうの空へと吸ひ込まれてゆく
生きるための飢えと 失はれぬ美しさをそこに残して
II
母は何度も その日のことを語つてくれた
あの焼け野原で聴いた 切ない歌声のことを
それは消へ去つた森の教会が 最後に響かせた
目に見えない賛美歌だつたのかもしれない
いまはもう あの恐ろしい風も 飢えの記憶も
遠い過去のしじまのなかに 埋もれてしまつたけれど
母の言葉を通して ぼくの胸にはありありと浮かぶ
灰のなかで たしかに美しく生きようとした人々の姿が
森は消えても 母が遺したその語り草は
いまもぼくの心のなかで 静かにうたひつづけてゐる

#日記広場:小説/詩




Copyright © 2026 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.