28歳の見習い僧侶が放火したというショッキングなニュースをみて、ショックとともに、大爆笑しました。なんちゅ~煩悩まるだし直情ムーブなんだ…と。そして、そのニュースがもたらす衝撃に、私たちは、言葉にする以前に感覚で「僧侶がそんな事していいわけない」という不文律を抱いていることを思い出させてくれました。そういう世間の大きすぎる重たすぎる期待は、僧侶見習いという人たちに、息苦しく重くのしかかっているんだとしたら、それはまぁ、確かに、「すべてが嫌になった」っていうのも、当然の事だったのかもしれません。人間なのに、神の様に完璧になれなんて、できるわけないのにやらないといけない。それが僧侶のおかれるむごすぎる立場だと思われます。そういう現実を、感知してしまったんでしょうね。未来永劫、自分には普通の人がやるハメを外すという行為は、一生できない。ちっとも、許されないという透徹したその絶望というのは、どれだけ身を切るようだったんでしょうね(笑)大爆笑です(笑)放火してしまいたい程なんでしょうね。煩悩というものを滅殺するということは…。これはなかなか、興味深い事実ですよ。煩悩というのを断ち切る時の苦しさは、放火してしまいたいくらいなんだ、という事を証明していますね。事件や犯罪というテーマでみると、もちろん行為を擁護する事はできません。それは償うべきで犯してはならない行為である。でも、その行為を選んだほどに「すべてが嫌になった」という言葉には、なかなか味わい深い奥行きがありますよ。その苦しみの深さは、放火してしまうまでに、「真実」だったのでしょう。ちっとも苦労してない人が「私だってここまでやってくるの大変でした~」と軽く言ってるのを見た事がありますが、この僧侶見習いの感じた苦しみというのは、間違いなくホンモノでしょう…。これには凄い価値があると思いますよ。そこまでする苦しみというものは、なかなかないですよ!これは資産ですよ(笑)罪を償ったら、この人は、偉い僧侶になるに違いない。と私には思えました(笑)そこまで深い絶望放火しなければならないほど追い詰められた透徹した絶望、そこまでの境地に感慨に達した人は、なかなかの聖人に近いものがあると、私は思いますよ!
それに、幸いというか、この見習い僧侶犯人さんは、自分で放火しましたが、自分で自首していますし、同居の人に火が付いたから逃げるように言ったそうです。「火つけて焼き殺そう」とは思わなかったんでしょう。助けた。そこにもなんか、なかなかの理性が見えます(笑)理性があるのに、そんな重大な犯罪を犯すというこの人の中にあったのは、うつ病的な何か問題だったのでしょうか。それとも、「世の中の全てが嫌になった」という言葉に隠れた世界の悲惨な真実がそうさせたんでしょうか。理性的なのに、そういう事してしまうまでに、「嫌になった」という絶望、その絶望の大きさ鋭さ、重さ、希望のなさ…それはどれだけだったんでしょうね…彼の心の目はどれだけ深い闇をみてしまったんでしょうね…(笑)そしてそれを「もう嫌だ」と思ったという、私としては、こういう人の心こそ本当に美しいとしか思えませんよ(笑)もし、うまれながらの本当に悪魔だったら、全てが嫌になるほどの世界の真実なんかみたら「やった~~~~世界は悪で満ちてて悪魔生きやすい~」ってなったんじゃないでしょうか(笑)
まだ28歳。そんな青年のあまりにも美しすぎる心がそうさせたのだろう、そこまで絶望するほどに?っていうあまりにも純朴すぎる青年の気持ちが、痛いほど伝わり、私にとってはこの人はものすごく善人なんだろう。としか思えません。住職がいない時に放火するとかいうのも(笑)いる時n放火したらヤっちまえるのに(笑)煙とか吸わせて後遺症とか残せるのに(笑)そういう計算した害心はなかったんでしょう。何か、とてつもない善人の苦しみ、善人の痛み、善人の嘆きをみたような、そんなニュースでした。キリストの受難にもあらわされるように、聖なる道の受難の苦しみというのは、どれほどなのでしょう、拷問といってさしつかえないものがあると思います。それが軽い言葉じゃないというのを、「全てが嫌になった」といった僧侶のことばと放火という行為が、裏打ちしてるようだと思いました。軽い顔して、「いや私は苦労なんかしていません」という僧侶の一人一人が、いかに本当は放火してしまいたい程の苦しみを経た人たちだったのか…。私は一人のそんな聖人をすごいと思ってる俗な人間として、本当になんてお坊様っていうのはありがたい存在で、本当に苦しい重圧に耐えてる人たちなんだろうとしか思えません。放火してしまいたい程の苦しみを、へて、そこに立っているんだと思うと、とても馬鹿にはできません。見えない苦しみを、可視化した人だった。というような気がしてなりません。森さんのした事って(笑)ほんとになかなかの表現者です。
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