狂おしい海と、すました月
- カテゴリ:その他
- 2026/08/10 22:24:00
僕は今、ひとり夜の海岸に突っ立って、ただもう、ぼんやりと海を眺めているので足元で、真っ黒な海水が、まるで狂った巨大な蛇のようにのたうち回っている。それは僕の胸のなかの、醜い自意識の渦そのもののようで、見ていて吐き気がする。激しくぶつかり合い、泡を噛み、お互いを裏切りながら崩壊していく波の群れ。それだのに、見上げてごらんなさい、あの八月の空。天に浮かぶ月は、ぞっとするほど青白く、すました顔をしてこちらを見下ろしている。地上の僕たちの、このみっともないジタバタを、冷酷に嘲笑っている。
僕という存在の、滑稽な告白
「ああ、実存の空虚」などと、口先ではいかにも高尚そうな絶望を呟いてみせるのです。
しかし、その実、僕のポケットのなかには、さっき買ったばかりの、まだ温かい餡パンがひとつ、大事そうにしまわれている。
忘却の彼方などと言いながら、お腹が空くのを恐れている。この、たまらなく卑屈で、滑稽な僕の二面性。
忘却の彼方などと言いながら、お腹が空くのを恐れている。この、たまらなく卑屈で、滑稽な僕の二面性。
これこそが、人間の正体というものかも知れません。
渦巻く波のように内面は濁って狂っているのに、表面だけは、あの月のように澄まして生きていこうとする。
僕はその矛盾が、ただもう恥ずかしくて、今すぐこの渦のなかに飛び込んでしまいたいと願うのです。
もっとも、僕のような臆病者は、波飛沫でスーツが濡れるのさえ嫌って、結局はすごすごと宿へ引き返すに決まっているのですが。
渦巻く波のように内面は濁って狂っているのに、表面だけは、あの月のように澄まして生きていこうとする。
僕はその矛盾が、ただもう恥ずかしくて、今すぐこの渦のなかに飛び込んでしまいたいと願うのです。
もっとも、僕のような臆病者は、波飛沫でスーツが濡れるのさえ嫌って、結局はすごすごと宿へ引き返すに決まっているのですが。
もう、手遅れなのです。
八月の熱気は、墓穴の底にこもる死臭のように僕の皮膚にまとわりつき、ただ腐敗を促すだけです。
道徳だの、希望だのという耳ざわりのいい言葉は、すべて剥げ落ちたペンキのように醜く反り返っています。
生きていること自体が、すでにひとつの巨大な背信であり、拭い去れない矛盾そのものでした。
八月の熱気は、墓穴の底にこもる死臭のように僕の皮膚にまとわりつき、ただ腐敗を促すだけです。
道徳だの、希望だのという耳ざわりのいい言葉は、すべて剥げ落ちたペンキのように醜く反り返っています。
生きていること自体が、すでにひとつの巨大な背信であり、拭い去れない矛盾そのものでした。
言葉を失った僕の前に、ただ、底知れない夜の海が広がっています狂乱の渦足元の波は、黒い粘液となって、お互いを貪り食いながら渦巻いている。それは救いようのない人間の業(ごう)が、暗闇の中で激しくのたうち回っている姿。引き摺り込まれれば、骨も残らず粉砕されるであろう、完璧な破滅の揺籠(ゆりかご)。白痴の月その狂乱を、八月の月は、ただ凍りついた眼差しで凝視している。慈悲など微塵もない、無機質で、冷酷な、天の巨大な虚無。その青白い光に照らされて、僕の五臓六腑の醜さが、残酷なまでに暴き出されていく。
卑屈な肉体、終わらない夜
僕の魂はとうに擦り切れ、一滴の涙さえ残っていません。
すべてを終わらせるべき完璧な舞台が、いま目の前に完成しているというのに。
それだのに、僕の心臓は、この期に及んでもまだ、いやらしく、規則正しく脈を打っている。
この肉体の、ぬくぬくとした生存本能が、ただもうおぞましくて堪らないのです。
すべてを終わらせるべき完璧な舞台が、いま目の前に完成しているというのに。
それだのに、僕の心臓は、この期に及んでもまだ、いやらしく、規則正しく脈を打っている。
この肉体の、ぬくぬくとした生存本能が、ただもうおぞましくて堪らないのです。
渦巻く黒い波に身を投げ出す勇気もなく、かといって月光の下で生きていく資格もない。
僕はただ、外套の襟をかきむしり、泥を這う虫のように、その場に頽(くずお)れるだけです。
夜はどこまでも深く、冷たく、僕という存在をじわじわと圧殺していく。
そこには、一行の詩も、一欠片の救済もありはしないのです。
僕はただ、外套の襟をかきむしり、泥を這う虫のように、その場に頽(くずお)れるだけです。
夜はどこまでも深く、冷たく、僕という存在をじわじわと圧殺していく。
そこには、一行の詩も、一欠片の救済もありはしないのです。
視界のすべてが、ぬらぬらとした狂気に染まっていきます。
八月の夜気は温濁(おんだく)し、まるで巨大な怪物の口腔のなかに閉じ込められたかのように、じっとりと僕の呼吸を塞ぐのです。
ここにはもう、人間らしい感情の入る隙間などありません。
ただ、おぞましい自然の怪異が、僕の肉体をじわじわと解体していく恐怖だけが支配しています。
八月の夜気は温濁(おんだく)し、まるで巨大な怪物の口腔のなかに閉じ込められたかのように、じっとりと僕の呼吸を塞ぐのです。
ここにはもう、人間らしい感情の入る隙間などありません。
ただ、おぞましい自然の怪異が、僕の肉体をじわじわと解体していく恐怖だけが支配しています。
蠢く(うごめく)液体の地獄
眼前に広がる海は、もはや水ではありません。臓物のような渦真っ黒に濁った油の海が、音もなく、しかし確実に巨大な渦を巻いて蠢いている。それはまるで、引き裂かれた巨大な生き物の臓物が、暗闇のなかでのたうち回っているかのようです。波が砕けるたび、不吉な燐光(りんこう)が、死魚の腹のように生白く怪しく光っては消える。腐肉の匂い波飛沫(なみしぶき)が頬に触れるたび、肌が焼け付くような、腐った潮の匂いが鼻を突く。この渦は、地上のあらゆる汚物と、あらゆる人間の呪詛を飲み込んで肥大化した、液体の墓穴。
凝視する天の眼窩(がんか)
見上げる空には、八月の月が、あまりにも異常な姿で張り付いています 盲目の白眼それは光を放つ天体ではなく、天の肉壁に穿たれた、どろりと濁った「巨大な白眼」です。瞳孔のないその眼は、視線を持たぬまま、ただ執拗に僕の頭頂部を睨みつけている。蝕まれる影月の放つ、毒々しいまでに青白い光光(ひかり)が、僕の足元に、人間のものではない奇妙にねじ曲がった影を落とす。その光に照らされた僕の皮膚は、まるで死後数日を経たかのように、薄緑色に変色して見えるのです。
海は黒い底から僕の足を引っ張り、月は天から僕の精神を毟り(むしり)取ろうとする。
この不気味な海と月の挟み撃ちのなかで、僕は自己という境界線を失い、ただこの呪われた情景の一部へと、ゆっくりと融解していくのを感じるばかりです。
この不気味な海と月の挟み撃ちのなかで、僕は自己という境界線を失い、ただこの呪われた情景の一部へと、ゆっくりと融解していくのを感じるばかりです。
狂瀾のなかの胎動、月光が孕む(はらむ)もの
ついに、世界の亀裂から「それら」が這い出してきました。
耳鳴りは、無数の虫が脳を食い荒らす羽音(はおと)へと変わり、空間そのものがぐにゃりと歪みます。
海と月は、僕を圧殺するだけの背景ではなく、あの世の怪物を産み落とすための、巨大な子宮であったのです。
耳鳴りは、無数の虫が脳を食い荒らす羽音(はおと)へと変わり、空間そのものがぐにゃりと歪みます。
海と月は、僕を圧殺するだけの背景ではなく、あの世の怪物を産み落とすための、巨大な子宮であったのです。
渦から這い出る、黒い肉塊
足元の粘つく渦巻から、潮鳴りとは異なる、粘着質な音が響き始めます。無数の濡れた腕黒い油の渦のなかから、骨のない、青白い人間の腕のようなものが、何百、何千と突き出される。それらは夜空を求めてもがき、お互いの指を絡ませ、引き裂き合いながら、波の斜面をびっしりと埋め尽くしていく。粘液に濡れた顔波が退く一瞬、渦の底に、引き攣(つ)った笑いを浮かべた無数の「顔」が浮かび上がる。すべて僕の顔であり、同時に、僕がこれまでの人生で裏切ってきた人々の、膨れ上がった死顔。それらが一斉に、言葉にならない、濡れた声を立てて僕の足首を掴もうと這い上がってくる。

























