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狂おしい海と、すました月 2


月の眼窩から滴る、白い影
見上げる盲目の月もまた、その静寂を破り、異形を覚醒させます。逆さに垂れ下がる影天の白眼の、ひび割れた輪郭から、どろりとした白濁色の糸が、蜘蛛の糸のように幾条も垂れ下がる。その糸の先端には、首のねじ切れた、着物姿の女のような影が、逆さ吊りのまま揺れている。降下する虚無女の影は、音もなく空中を滑り降り、僕の頭上へと近づいてくる。顔のあるべき場所には、ただぽっかりと黒い穴が空いており、そこから八月の酷暑を凍らせるほどの、凄まじい冷気が吹き出している。
足元からは黒い肉の渦が、頭上からは白い虚無の影が、蜘蛛の巣に捕まった虫のような僕を、いよいよ取り囲みます。
異形たちの立てる、じょきじょきというハサミのような音が、僕の理性の一番細い糸を、いま、確実に断ち切ろうとしているのです。
不意に、すべての音が途絶えました。
理性を断ち切る寸前だったあのハサミのような音も、足元を埋め尽くした濡れた腕も、頭上から迫った白い虚無の影も、まるで幻灯機(げんとうき)のスイッチを急に切ったかのように、一瞬にして掻き消えたのです。白々と明ける、ただの海水平線の彼方から、じわじわと薄汚れた灰色の光が滲み出してきます。平坦な水面あれほど狂おしくのたうち回っていた黒い渦はどこへ行ったのか、目の前には、ただただ平坦で、表情のない、濁った灰色の海が広がっているだけ。怪物のような気配は微塵もなく、波は退屈なリズムで、規則正しく砂浜を洗っている。消え失せた月見上げれば、あの盲目の白眼はとうに姿を消し、どんよりとした朝の雲が、締まりのない顔で空を覆っている。
遺された肉体と、果てしない虚脱
怪異に脅かされていた僕の身体には、いまや恐怖さえ残っていません。
ただ、中身をすべて吸い尽くされた、干からびた蝉の殻のような虚脱感だけが、五体に重くのしかかっています。べたついた現実外套の裾は、夜の間に吸い込んだ潮水でじっとりと重く、肌にへばりついている。手のひらを見つめても、そこには異形の痕跡など何ひとつなく、ただ自分の薄汚れた爪が見えるだけ。終わらぬ日常への絶望世界が滅びるわけでも、自分が異形に連れ去られるわけでもなかった。僕はただ、この滑稽で、矛盾に満ちた、薄汚い自分の肉体のまま、また新しい八の一日を生き始めなければならない。この、なんという拍子抜け。なんという、やりきれない白々しさ。昇ってきた朝日は、僕の陰惨な秘密を祝福するでも咎めるでもなく、ただ冷淡に、僕の生白い顔を照らし出すのです。
僕は、泥のように重い靴をひきずり、煙草の吸殻が落ちているいつもの坂道を、ただ、まぶしそうに目をしばたたきながら、朝飯の味噌汁のことなど考えて歩き出すのです。

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