白露の人 3
- カテゴリ:日記
- 2026/09/07 13:31:49
お話は、それから一週間ほど経ったころのことでございます。
真理恵さんは、両手で小さな秋草の花束を抱えていました。それは、どこにでも咲いているような紫色の野菊と、薄紅色の秋桜(コスモス)でございました。
「これ、土手にたくさん咲いておりましたの。眠さんはいつも、お一人で難しいお顔をして机に向かっていらっしゃるから……お部屋に少しでもお花があれば、お心が和むのではないかと思いまして」
真理恵さんは、耳のたぶまで真っ赤にしながら、その花束を縁側の端に、そっと置きました。
それから翌日の朝のことでございます。
真理恵さんは又も、湯気の立つお芋の包みを抱えて、嬉しそうに我が家の門をくぐってまいりました。私は縁側を掃き清め、座布団なぞを用意して、彼女を迎え入れたのでございます。
けれども、いざ、真理恵さんが私のすぐ隣に腰掛け、その着物の袂(たもと)が私の袖に触れるか触れないかという距離になったとき、私の胸を満たしたのは、幸福感ではございませんでした。
恐ろしさ、でございます。
「眠さん、どうぞ。まだ熱うございますよ」
真理恵さんは、それは美しい手つきで、お芋を二つに割って私に差し出してくれました。黄金色の湯気が、二人の間に立ち上ります。
真理恵さんは、それは美しい手つきで、お芋を二つに割って私に差し出してくれました。黄金色の湯気が、二人の間に立ち上ります。
私はそれを受け取り、口に運びながら、にこにこと笑ってみせました。真理恵さんも、満足そうに微笑んでおいでになります。絵に描いたような、睦まじい、幸福な朝の風景でございます。
しかし、私の頭の中では、もう一つの冷徹な声が、カンカンと警鐘を鳴らし始めていたのでございます。
(おい、眠。お前はまた、この清らかな娘さんを裏切るぞ。今はこうして調子よくお芋を食べているが、そのうち、自分の苦しみや、心の闇を真理恵さんにぶつけ、彼女のその美しい微笑みを曇らせるに決まっている。お前のような濁った人間が、こんな日向(ひなた)の幸福に安住できるわけがないのだ)
その声が聞こえた瞬間、お芋の甘みは、まるで砂を噛むような味気なさに変わってしまいました。
真理恵さんの、私を見つめる信頼に満ちた目が、急に、重い目方に思われてまいります。私は、彼女に愛されれば愛されるほど、その期待に応えねばならぬという義務感に押し潰されそうになり、息が詰まるのでございました。
「……眠さん? どうなさいました? お口に合いませんでしたか」
真理恵さんが、心配そうに顔を覗き込んできます。私は慌てて、卑屈な道化の笑顔を作りました。
「いいえ、いいえ! 滅相もない。あまりに美味しくて、言葉を失っていただけでございますよ」
そう言って、私はお芋を一気に胃袋へ流し込みました。そうして、喉を詰まらせそうになりながら、心の中で、必死に叫んでいたのでございます。
(お願いだ、早く帰ってくれ。私を一人にしてくれ!)
人間と深く関わることは、なんと恐ろしく、身のすくむ営みなのでしょう。私は、寂しさに耐えかねて誰かを求めずにはいられないくせに、いざ誰かが私の孤独の部屋に足を踏み入れてくると、今度はその人の存在そのものが、煙たく、煩わしくてならなくなるのでございます。まことに、生きてゆく資格のない、我儘(わがまま)な、阿呆(あほう)な男であります。
「では、私はそろそろ……」
真理恵さんは、私の微かな引きつりに気付いたのか、少し寂しそうな目をして立ち上がりました。
真理恵さんは、私の微かな引きつりに気付いたのか、少し寂しそうな目をして立ち上がりました。
「ええ、ええ。お気をつけて。お芋、本当に美味しかった。ありがとう」
私は門のところまで彼女を送り、彼女の姿が角を曲がって見えなくなるや否や、まるで真理恵さんから逃げるように、いや、真理恵さんを傷つける私自身から逃げるように、バタンと門を閉め、鍵をかけました。
そうして、大急ぎで縁側へ戻り、彼女の座っていた座布団を片付け、一人きりになって、ふうっと、深い、深い溜息をついたのでございます。
静寂が、戻ってまいりました。
庭の隅には、まだお日様に照らされながら、誰に看取られるでもなく、ひっそりと消えかけている白露が残っています。
庭の隅には、まだお日様に照らされながら、誰に看取られるでもなく、ひっそりと消えかけている白露が残っています。
ああ、やはり、一人がいい。
誰の期待も背負わず、誰を裏切る心配もなく、ただ自分の毒液の中に浸かって、じっと息を潜めていることの、なんと気楽で、清々(すがすが)しいことでありましょう。私は、真理恵さんが置いていったあの野菊の花束を、机の引き出しの奥へと、そっと仕舞い込みました。
私は、白露(はくろ)の人。
誰かに見つけてもらう一瞬の歓喜よりも、誰の目にも留まらぬまま、朝の光の中で静かに消え去ってゆく、あのいさぎよい孤独こそが、やはり私にはお似合いなのでございます。
誰かに見つけてもらう一瞬の歓喜よりも、誰の目にも留まらぬまま、朝の光の中で静かに消え去ってゆく、あのいさぎよい孤独こそが、やはり私にはお似合いなのでございます。
























