Nicotto Town


発狂した宇宙


レノンレノン(2)

 気味悪がるサヨコを尻目に、わたしは男に事情を聞くことにした。
 男はしばらく口を閉ざしていたが、やがて意を決したように、口を開いた。
「何から話していいのかわかりませんが」そう前置きして男は言った。
「多元世界、という言葉をご存知ですか?」
 わたしは首を振った。
「あ、聞いたことあります」サヨコが手を上げた。「第二次世界大戦で、ドイツが勝った世界がどこかにあるかも、ってやつでしょ」
「『高い城の男』だ」男は微笑んだ。「よかった。ディックもあるんだ」
「さっぱりわからない」わたしは言った。
「あなたは、今いる世界がこの世に存在する唯一の世界だと思っていますよね」男は言った。「だけど、実は違うんです」
 男は水を指につけて、カウンターに図を描いた。
「あなたが今いる世界は、Aという世界だとしましょう」男は隣にBを書いた。「その世界の隣には、Bという別の世界がある。そこには、僕もいて、あなたもいます。ですが、AとBとは何かが違っている。Aにない余計なものが、Bにあったり」
 男はこちらを見た。
「Bには当然あるはずのものが、Aにはなかったり」
 首をかしげるわたしに、男は言った。
「たとえば、さっきまで……さっきと言っても、三か月前ですが、僕は沖縄にいました」
「沖縄?」
「だからそんな格好なんだ」サヨコが頷いた。
「そこでは」男は言った。「僕が今までいた世界では、ということですが、沖縄は、アメリカの53番目の州になっていました」
 わたしは眩暈がした。
「ほかには?」サヨコが尋ねた。
「今まで行った中で一番酷い世界は」男は言った。「ビートルズがなかったんです」
「へえ」わたしは言った。
「最悪でしたよ。ロックミュージックが世界的に衰退しているんです」男は言った。
「どうなっていたの?」
「日本のヒットチャートが、全部演歌でうめつくされてました」
「へえ」わたしは笑った。
「ほかにもいろいろありました」男は言った。「日本がアメリカに勝った世界もありましたよ」
「ええっ」わたしは言った。
「多分、明治維新自体がなかったんでしょうね。みんな、チョンマゲしてましたから」
「……すごいわね」わたしは言った。言いながら、この男の言っていることを信用していいものなのかどうか、迷っている自分がいるのを自覚していた。
「ほかにもいろいろな世界がありました。コンパクトディスクのない世界がありました。パソコンのない世界、それから」男は言った。「日本という国が、地図から丸ごとない世界も」
「ねえねえ」サヨコは興味津々な様子だ。サヨコはもともと、SFが大好きなのだ。「それはわかったんだけど、どうやってその世界と世界の間を行き来するの?」
「ああ」男はバッグから、ドライヤーくらいの大きさのものを取り出した。「これですよ。この機械で移動するんです」
「ええっ?」サヨコが驚いてそれを手に取った。「ドライヤーっぽい……ていうかどう見てもドライヤーじゃないですか」
「ちょっと危ない」男は慌ててサヨコからその機械を取り上げた。
「うかつに触ると怪我しますよ」
 サヨコは慌てて手を引っ込めた。
 わたしは確信した。
 この男は頭がおかしいのだろう。
「まあいいわ」わたしは平静を装った。
 最近起きている危険な事件のことを思う。下手に刺激したくない。
「ココアでも飲む?」
「ありがとうございます」男は頭を下げた。「御代はお支払いします」
「いいわよそんなの」
「なんでそんなことになったんですか?」サヨコが無邪気に尋ねた。
「そんなこと?」男は言った。
「世界と世界の間を移動しているんでしょ?」
「ああ」男は言った。「最初は事故でした。常温核融合の実験をしていたのですが、事故で……飛ばされてしまったんです」
「そうなんですか」サヨコが言った。
 間抜けな相槌だが、確かにそうなんですかとしかいいようがない。
「で、最初に飛ばされた世界が幸い、結構進んだ世界だったんで」男は言った。「研究所に入れてもらって、この機械を作ったんです」
「これがねぇ」わたしは言った。ドライヤーにしか見えないけれど。
「で、それからは元の世界に戻ろうといろいろ、試している感じです」男はだんだん上機嫌になっていく。
 わたしは背中に冷たい汗を感じていた。
「そうだ」男は言った。
「百科事典はありますか?」
「あるわよ」わたしは言った。
 店の隅にブリタニカの百科事典が置いてある。インテリアのつもりで買ったものだ。
「おおすごい」男は言った。「ブリタニカの百科事典なんてひさしぶりに見ましたよ」
「好きに見て」わたしは言った。




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