Nicotto Town



身の切り方は、それぞれ

ご無沙汰をしております。

1週間ぶりくらいですかね。


特に何という事はありませんが、あまり日記を書く気も起きずに過ごしておりました。


それで。


また止めておけばいいのに、夜中になってから映画などを見ておりました。

「津軽のカマリ」

初代高橋竹山のドキュメンタリー映画です。
昭和46年の「寒撥」という同じくドキュメンタリーの焼き直しという話もあるようですが、それはそれ。というか、「寒撥」とは違って97年に竹山を襲名した二代目が大きくフィーチャーされているところが、こちらの肝なのだと思います。純粋に初代竹山の演奏と生き様を見たいだけなのであれば、「寒撥」を見ておけばいいのだと思います。

初代竹山の独特の奏法というか三味線の弾き方というものは確かにあるのですが、盲目であるが故に差別され、石を投げつけられながらでも三味線を街角で弾いて、乞食の如く投げ銭をもらい、時に食えなくなり餓死しそうになりながら、それでも弾かなければ生きていくことが出来なかった竹山。まさに命を削って三味線を弾いていたわけで、そのことを知るが故に「やはり初代の音は凄い。二代目といっても所詮は芸術家の自己表現であって、別物だよ」というような軽口を叩くことは容易いことです。

いや、思いますよ。

単純にテクニックだけを言うのであれば、二代目をはじめ、弟子たちの方が上手いかもしれない。でも、なんというか不要に手数が多いというか、変な表現ですが、どうしても「音楽」になってしまっているような印象を、私自身も持ちますよ。色々なミュージシャンとコラボレーションし、ジャズなんかもやってみたりして。

しかしどうなんでしょう。

確かに、初代の ”生きるための三味線” という血の滴るような重さは、二代目や弟子たちにはないでしょう。でもそれは仕方がない。それを言っても詮無いというもの。生きる土壌が違うのであって、そこは何をどうやっても初代と同じ地平には立てない。そしてなにより、そんなことは当人が一番分かっている。

自分が初代の名を襲名して良いものなのか。
初代には、そもそも論として、どうあっても並ぶことの出来ない存在。
その中で二代目を語る自分とは、何者なのか。

その葛藤の中で、高橋竹山を語り続けるプレッシャーは、当人にしかわからない。その重荷を背負うことで、二代目としての独自性を模索すれば良いんじゃないですかね。つい、生き様がどうかいうところに目が行ってしまうわけですが、評価する側が一旦そこから離れないと、どれほど良い音楽を二代目が奏でてても、いや奏でるほどに偽物になっていってしまう。

青森では、二代目を「竹山」と呼ばないことが間々あるようです。そんな中で、襲名して20年、二代目竹山は、地元青森での単独公演を一度も行っていなかったようです。出来なかったのでしょう、恐ろしくて。

でも、この映画の中で初めての青森単独公演の演奏が一曲だけ収められていましたが、わたしは良い演奏だったと思います。素直に、聞き入りました。

6月には、長野で公演があるようです。
行ってみたいなと思いました。

子供の頃、津軽三味線に心惹かれて折に触れて聞くようになり、そして大学生の頃に初めて初代竹山の音源に触れた時の興奮は覚えています。

でも、それはそれ。
素直に、津軽三味線の音に身を委ねて見たいなと思うだけです。



久しぶりに日記を書いたと思ったら、なんだこの重苦しいのはw
では、また。




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