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哲学の日

●哲学の日
 紀元前399年4月27日。
 ギリシアの哲学者・ソクラテスが、死刑宣告を受けて、刑の執行として獄中で毒を飲んで亡くなり ました。 
 告発された容疑は、「青年を害し、国家の神々を信じないで、新しいダイモンを持ち込む」というものでした。
 噛み砕いて言う と、青少年を悪の道に誘惑する罪でした。
 このような告発をうけた背景には、当時のアテネの政界は民主派と寡頭派(独裁)と対立していました。
  このとき、ソクラテスは友人や弟子が寡頭派にいたことと、ソクラテス自身が民主派が衆愚政治になりがちであったことに反対していたことがあげられます。
  さて、ソクラテスは、古代ギリシアの哲学者で、紀元前469年頃に、アテネ近郊に彫刻家の父と助産婦の母に生まれたとされているけど、前半生は不明です。
  ソクラテスの後半生はペロポネソス戦争とそれに続くアテネの衰退期にあたります。
 ソクラテスはペロポネソス戦争に参戦したといわれています。
  従軍したのは、3回だったといわれています。
 そして、ソクラテスは「ダイモンの合図」と述べた一種の神の信託を受けました。
 信託の内 容というのが、「ソクラテスより賢者は無し」というもので、その信託を試すべくアテネの賢者を巡りました。
 その結果、「無知の自覚」という点 で、誰よりも自分が勝っていたことを確信したのです。
 それに、加えてソクラテスは口だけではなく、行動しました。
 街頭で「問答法」に よって、アテネの人々の思想を徹底的に吟味して、真理に導こうとしました。
 しかし、プロタゴスらのソフィスト(弁論・修辞の職業的教師)たち が、真理を相対的なものとしたのに反対したのです。
 プロタゴスらは、自分に都合よく論理を摩り替えるなどの詭弁を弄することを生業とした人々で すが、ソクラテスは、彼らに対して、普遍的、客観的真理の探究をフィロソフィア(愛智)をもって対抗しました。
 ソクラテスは、アポロン神殿の格 言「汝、自らを知れ」を自分自身の戒めとしたほか、人々にもそう説きました。
 しかし、アテネ市民には受け入れられず、告発され死刑判決が下され たのです。
 弟子たちは脱獄を勧めましたが、「悪法も法」だと言って毒杯をあおったのでした。
 また、ソクラテスの妻が悪妻として有名 で、ソクラテスは「悪妻と結婚したから哲学者になれた」との名言を残したそうです。
 そうしたことも悪妻の日とも呼ばれることもあります。




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