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リメンバー・チェルノブイリ・デー

●リメンバー・チェルノブイリ・デー
1986年(昭和61年)に当時のソ連ウクライナ共和国の
チェルノブイリ原子力発電所で人類史上最悪の原発事故が発生し、周辺の地域に大量の放射能がまき散らされたました。
 史上最大級の事故は、原発の見直しも検討されるほど衝撃的でした。
 このチェルノブイリの悲劇を忘れないため、そして、これからも放射能による環境汚染も含め、その安全性にたえず警告を発していく日です。

 さて、このチェルノブイリ原子力発電所事故は、炉心溶融(メルトダウン)ののち爆発し、この爆発により一瞬のうちに原子炉が破壊され、火災が発生しました。
 火災を消火するために、ヘリコプターから原子炉の炉心めがけて総計5,000トンにおよぶ砂や鉛などが投下されたそうです。
 火災は爆発から10日後の5月6日にようやく収まったそうです。
 このチェルノブイリ原子力発電所事故によって、原子炉内にあった大量の放射性物質が大気中へ放出され、放射性降下物となり、ウクライナ・ベラルーシ・ロシアなどを汚染しました。
 また、放射性物質は、風にのり、世界各地に広がりました。チェルノブイリから約8,000キロ離れたここ日本でも、野菜・水・母乳などから放射能が検出さたといわれています。

 事故後のソ連政府は住民のパニックや機密漏洩を恐れ、この事故を公表しなかったそうです。
 また、付近住民の避難措置等も取られなかったため、付近の人たちは、甚大な量の放射線をまともに浴びることになりました。
 このような対応の遅れなどが重なり被害が甚大化・広範化
し、史上最悪の原子力事故となりました。
 また、この規模の原発事故は他に例がなく、世界の原子力開発の歴史の中で最悪の事故と言われています。

 さて、この最悪の事故の中心となるメルトダウンをおこした4号炉は操業休止中であり、原子炉が止まった際に備えた実験を行っていたそうです。
 この実験の内容は、原子炉停止によって電源が停止してから非常電源に切り替えるまでの短い時間の間、システムが動作不能にならないように、原子炉内の蒸気タービンの余力で最小限の発電を行うというものだったそうです。
 しかし、炉の特性による予期せぬ事態の発生に対して、作業員が条件を満たすために、非常用炉心冷却装置を含む重要な安全装置を全て解除し、実験を開始するという不適切な対応により、不安定状態から暴走に至り、最終的に爆発になりました。

 事故後、爆発した4号炉をコンクリートで封じ込めるために、延べ80万人の労働者が動員されました。
 4号炉を封じ込めるための構造物は石棺(せっかん)と呼ばれているそうです。

 この爆発事故の要因として、
 ・運転員への教育が不十分だったこと
 ・特殊な運転を行ったために事態を予測できなかったこと
 ・低出力では不安定な炉で低出力運転を続けたこと
・実験が予定通りに行われなかったにもかかわらず強行したこと
 ・実験の為に安全装置をバイパスしたこと
 が挙げられます
 後の事故検証では、これらのいずれかがひとつでも守られていれば、爆発事故、或いは事故の波及を防げた可能性が極めて高いとすらされています。
 当初ソ連政府は、事故は運転員の操作ミスによるものとされていましたが、後の調査結果などはこれを覆すものが多くあったそうです。
 実際、上述したなかの重要な安全装置の操作が、運転員の判断だけで行われたとは考えにくいのはあきらかです。
 となると、現場の運転員の操作ミスというよりも、実験の指揮者の判断が大きかっただろうと考えられます。
 こうしたことからも、原子力発電については、運用する側の冷静な判断力と運転員の教育の徹底が大事故を回避する最大の対策であると言いえるでしょう。

 




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