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左遷の日

●左遷の日
 901(延喜元)年1月25日、右大臣・菅原道真が醍醐天皇によって九州の大宰府に左遷が言い渡され都を旅立った日です。
 菅原道真は、代々学者の家系に生まれ、18歳で文章生となり、33歳で文章博士となったそうです。
 宇多天皇の信任が厚く、藤原氏を抑えるために重用されました。
 42歳の時讃岐の国司に赴任し、4年後に帰国すると宇多天皇の下、昇進を重ねたそうです。
 899年左大臣藤原時平と並んで右大臣に任ぜられましたが、学者出身の人物としては異例の出世でした。
 この菅原道真の才能を妬む左大臣・藤原時平は、道真を罪に陥れてやろうと策略し「道真は国家の政治を私物化している」と醍醐天皇に何度も讒言した。これにより、天皇も道真のことを逆臣と思いこむようになったそうです。
 その結果、901年1月20日に菅原道真を太宰権帥に左遷、筑紫国に流罪とされました。
 菅原道真は、梅の花を好み、邸内にはたくさんの梅を植えていたので、邸宅は「紅梅殿」とも呼ばれていて、長年住み慣れた自宅の庭に植えられていた梅が咲いているのを見て
 "東風吹かば匂ひ送来せよ梅の花 主無しとて春を忘るな"
 と詠み、この日、都を旅立ったそうです。
 伝説では、その梅は菅原邸から太宰府の庭まで飛んで行ってそこに根づいたという「太宰府の飛梅」ともいわれています。
 菅原道真は無念の思いを抱きながら、2年後の903(延喜3)年2月25日に亡くなったそうです。
 菅原道真の死後、都では落雷などの天災、また、藤原時平一族の早世が相次いだため、人々は、これを「道真の怨霊のしわざだと…」と噂するようになりました。
 その霊を慰めるため、その罪を取り消して太政大臣の位を贈るとともに、京都・北野に道真を祭神とする天満宮(947年)が建てられ、「北野天神」として祀ったそうです




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