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女性に対する暴力廃絶のための国際デー


●女性に対する暴力廃絶のための国際デー

 国連総会は11月25日を「女性に対する暴力撤廃の国際デー」に指定しました。
 制定したのは、1999(平成11)年12月17日の国連総会で制定したそうです。
  制定されたキッカケは、 女性運動活動家たちは1981年以来、11月25日を暴力反対の日としてきたことにあるそうですが、11月25日がそうした非に なったのは、1961(昭和36)年、ドミニカ共和国の政治活動家であったミラバル3姉妹が、ドミニカの支配者ラファエル・トルヒジョの命令により惨殺さ れたことに由来します。。
 ミラバル姉妹はドミニカ共和国に生まれ、1950年代にラファエル・トルヒーヨの独裁政権に反対した活動家です。
 反対運動に身を投じたのは主に、
 長女パトリア・メルセデス・ミラバル
 三女ミネルバ・アルヘンティーナ・ミラバル
 四女アントニア・マリア・テレサ・ミラバル
 の三人です。
 次女のベルジサ・アデーラ・「デデ」・ミラバル=レヘスは、反独裁政権運動に積極的に関わっていなかったそうです。

 この、ミラバル姉妹はもともと、上流層に生まれ、文化的に恵まれた環境で育ったそうです。
 長じては全員が結婚して子供を持ったそうです。
 ミラバル姉妹の父親は成功した事業者であったものの、トルヒーヨ政権下で財産のほとんどを失うこととなります。
 姉妹はトルヒーヨがドミニカ共和国を経済混乱に陥らせていると考えるようになります。
 中でもミネルバは、トルヒーヨの独裁を終わらせることに情熱を燃やすようになり、反トルヒーヨ運動に身を投じたそうです。

 姉妹のうち2人は幾度も投獄され、拷問を受けた。また、3人の夫全員がラ・ヴィクトリアに収監されたそうです。

 しかし、上記のような運動の妨害にも屈せず、姉妹はトルヒーヨの独裁政権と戦い続けます。
 ミネルバ姉妹の投獄を何度も続けた後、トルヒーヨは姉妹を葬り去るという愚かな決意をしたそうです。
 そして、1960年11月25日、姉妹が獄中の夫を訪ねた帰り道に、トルヒーヨの送った一群の男性が彼女達を捕らえたそうです。
 非武装の姉妹はサトウキビ畑に連れ込まれ、殴打の後絞殺されたそうです。
 その後、彼女達の乗っていた車は、サンティアゴとプエルト・プラタの間にあるラ・クンブレの山から投げ落とされたそうです。

 トルヒーヨは、姉妹達を葬ったことで重大な懸案を取り除いたと考えていましたが、それは大きな過ちでした。
 
 ミネルバ3姉妹の殺害は裏目に出、ミラバル姉妹の死は大衆の大きな怒りを招いたのです。ミネルバ3姉妹達自身や、彼女達の死の理由について、ドミニカ共和国の人々の目を集めることとなりました。
 このような大衆の意識の変化が、6ヶ月後のトルヒーヨ暗殺の一つのきっかけになったと考えられています。

 ミラバル姉妹はサルセド近郊のオホ・デ・アグアの、彼女達が晩年の10ヶ月を過ごした土地に3人ともに埋葬されているそうです。
 またミネルバの夫、マノロも彼女達とともにこの地に眠るそうです。
 この土地には彼女達の実家が建っており、現在では彼女達を記念する博物館として一般に公開されているそうです。

 姉妹の生き残りであるデデは博物館のそばに住み、その息子ジャイメ・ダヴィド・フェルナンデス・ミラバルは、ドミニカ共和国大統領レオネル・フェルナンデスの政権一期目(1996年 - 2000年)に副大統領を務めたそうです。
 ミネルバの長女ミナウ・タヴァレス・ミラバルは、1998年から上院議員を務めているそうです。




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