Nicotto Town


小説日記。


罪と罰Ⅱ【言霊のロンド】5/6

 ヤエは、お父様のこと。そんなに信じてたのね。
 愛された分愛し返そうと必死だったのね。捨てられたこと、信じられなくて。まだ、あの時の約束を守ってるのね。
 あの時、ヤエが見せた笑顔は。まだ希望はあると信じていたから、向けてくれたものだったんだわ。
 私は何をした?いとも簡単にお父様への想いを忘れた。あんなにも感じていた想いを、たった一度や二度見た現実だったかも解らない夢なんかに絆されて。
 裏切られたと思ってしまったんだ。
 でも、本当に裏切ったのは、自分自身だった。
 未だ父を愛し続けていた自分を、裏切った。

 ――私が、馬鹿だったんだ。

 その時、少女の背後にあったのは、ヤエがうず高く積み上げた本の塔。そして下の方の本ばかり抜き取られた巨大な書架。
 書架に強か打ち付けた背中と後頭部に激痛が走る。軽くなった下の方へと叩きつけられた衝撃で、上の方の本がバサバサと雨のように少女に降り注いだ。
 脳震盪を起こしズルズルと書架に崩れ落ちた少女に、容赦なく本の雨は当たった。
 そして、バランスを崩した書架は。

 少女へとその巨躯を投げ出した。

 少女は笑っていた。その頬に、一条の涙を光らせて。

 また、気絶したみたいだった。でも、今度は夢を見た。
 朧な、霧の中を手探りするような夢だったけれど。

 ヤエが、泣いていた。

 カズサに取り縋ってただ泣いていた。
 暖かな大元帥の部屋。暖炉の火は、絶えず燃えた。
 外との温度差で曇る硝子は二人を映さない。
 カズサは、どんな顔をしていたのだろう。

「…………起きたかい?ザクラちゃん」

 ハッとする。
 どこまでが夢で夢じゃなかったのか、はっきりしない船旅だった。
 未だ混濁する意識の中、目を覚ましたことだけは理解して、カズサの声をいち早く脳内で処理した。

「……、ッ、?」

 でも、声が出なかった。何故?

「……ヤエくんが積み上げていた本があったろう?書架が倒れてきた時、上手く隙間が出来たんだ」

 じゃあ、つまり。
 それはヤエにとっては、皮肉になったのね。
 殺すつもりはなかったのかもしれないけど、でも。

 __いっそ、死んじゃえば良かったのに。

「……怪我が打撲だけで済んで良かったよ」

 カズサはそう言って微苦笑した。
 ほとんど、その表情なんて霞んで見えなかったけれど。
 温かい手が頭を撫でた。
 ぽっかりと心を穿った大穴に、何があったのか思い出せない。
 手を伸ばそうとすると、バラバラと漂う何かの残滓が腕を切り刻んだ。不思議と痛みは感じない。
 ただ、剥がれ落ちた残りカスが。
 何もかもを自分から奪っていったのだと解った。

 少女は泣いた。
 とうとうと涙を流した。
 それは、死ねなかったことに対してだったのか。それとも。

 結局、兄弟は父親に捨てられたあの日から。
 何一つ成長なんてしていなかったのかもしれない。前に進むことすら出来ていなかったのかもしれない。

 少年は、意思を失った。何を想い、何を感じていたのかを忘れた。
 少女は、感情を失った。何を感じ、何を想っていたのかを忘れた。

 少年は少女を見なくなった。
 目を合わせなくなった。
 心を閉ざした。
 ただ冷たく一点を見つめ、何かに取り憑かれたように戦闘に明け暮れた。
 笑うことすら、出来なくなった。

 少女はカズサを一心に慕った。
 以前のような快活さを全て失った。
 何を映してもその目に光が戻ることはなくなった。
 カズサに亡霊のように付き従い、与えられた仕事を何から何まで黙ってこなした。
 笑い方すら、忘れてしまった。

 兄妹が能力〝一日千秋〟を解放したのはその直後で、階段ですれ違った二人は急に喋らなくなったことを同じ軍の者にからかわれ、そのうちの一人が少女を酷く馬鹿にした。すると少年は逆上し、能力を解放してしまったのだ。
 同じ者から産み出され、無意識の領域で深く繋がり合う兄妹は、その瞬間全く同じ能力に目覚めてしまう。
 本来大元帥から与えられる能力解放の〝きっかけ〟は、その身に降りかかる〝命の危機〟、もしくは〝激しい逆境〟、〝自己の何らかの崩壊〟に限られる。
 兄妹はそれらを自ら引き起こしてしまったのだ。

 ヤエが逆上した理由を、少女は知らない。解らない。
 そして自分が逆上した理由を、ヤエは理解出来なかった。

 __まだ、壊れてしまっただだけで。
 __その〝愛〟が消えてしまったわけではなかったなんて、ヤエはそれすら信じたくなかった。

 能力発動の瞬間、白黒の世界は歪み、ぐにゃりと捻じ曲がった。
 何が起こったのか、理解出来なかった。ただ、目の前のヤエが自分を馬鹿にした上級大将に殴りかかろうとしていること、その人物たちが皆、取り残されたように止まっていることだけが解った。
 だが、よくよく見れば、本当に止まっているわけではない。ゆっくり、ゆっくりと。どこまでも緩慢に歪んだ笑みを見せて私を笑っている。
 少女は気づいた。
 時間が、限界まで引き伸ばされている。
 だが、その思考時間すらも一瞬だったのだ。
 ヤエを止めなければと脊髄が反射した少女は、少年に真横からその身を投げた。
 歪み、止まりかけようとしている世界で、二人は絡み合って階段から転げ落ちた。
 少女を振り払おうともがく少年は、泣いていた。

 やがて騒動を訊きつけてカズサが駆けつけた頃、兄妹は能力を使用したまま印を振り翳して――ヤエによる一方的な攻撃だった――大暴れしていた。
 壁は壊れ、床は傷だらけ、少女の血がまんべんなく飛び散り、一階のホールは大惨事となる。
 目にも止まらぬ兄妹の姿はまさに疾風迅雷とでも言うべきか、止める術も無いように思われた。
 だからそれは、ほんの一瞬、ヤエが気を緩めた――或いは。
 擦り切れ、バラバラに砕け散った感情の、一片だったのかもしれない。

 ヤエは少女の細首を片手で押さえ込み、その胸に護身用のナイフを突き立てようとしていた。
 少女はピクリとも抵抗せず、全身血まみれだった。

 時が戻ったのだ。ヤエは静かに泣きながら、自分自身が止まってしまったように動かなかった。
 一斉にヤエを兵たちが押さえつけ、引っ立てるように独房へと連れ去った。ヤエはその間、一度も抵抗しなかった。

 もう後戻りは出来なかった。
 二度と、以前のように笑えない。話すことすら、許されざることのように思えた。




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