Nicotto Town


小説日記。


玉響の足跡【小説】



「思い出に、縋って生きていけないんだ。」
「ヘルメス、トリスメギストス。」


* * *

「……外に、出たのかい?」

少女は頷いた。
泥と血まみれの手をぎゅっと握る。

「駄目じゃないか。外に出たら。」

少女は顔を上げた。
その手に握った一輪の花が風に揺れた。

「また、出ていかないといけなくなる。」
「ヘルメス、トリスメギストス。」

少女は、答えなかった。
サイレンの音が窓の外で鳴り響く。

* * *

猫が座っていた。
窓の外から、こちらを見て窓ガラスを引っ掻いた猫が小さく鳴いた。
首を巡らせれば、猫が尻尾を揺らして窓のサッシに爪をかけた。
カリカリ、と爪がサッシの隙間から抜け出てくると、少しずつ木枠の窓が動き出す。
柔らかい肉球の埋まる手が、ついにこちら側へたどり着く。
腕の半分まで窓を突き抜け、肩と鼻先を使って窓をグイグイと動かした猫は顔を出して、一つ、鳴いた。

「ナーオ。」

猫は、ひらりと舞った。
すっかり開けてしまった窓のサッシを蹴って、少女の膝の上に降り立つ。
真新しい本の頁が、泥道を歩いてきたらしい肉球でペタペタと塗り潰されてしまった。
腕の隙間で、猫はこちらを見上げて喉を鳴らした。
白い、猫だった。

「ニャ、」

短く、そう鳴いた猫が今日も膝の上に居た。
猫は、午後になるとやってきて夕方になると帰っていく。
どこから来るのか、どこへ帰るのか。
私は、知らなかった。

「ナウ。」

次の日、猫は、鼠を咥えてきた。
本の上に置かれた死にかけの鼠は、まだ小さく息をしている。
期待に満ちた猫の顔を見下ろして、私は小さく首を振った。

「ニャア。」

次の日、猫は、一輪の花を咥えてきた。
ローズマリーだった。

「……どこ?」

次の日、猫は、来なくなった。
夕刻を過ぎても現れなかった猫を探して、私は7日目、腰を上げた。
昨日もらったローズマリーを手に、いけないと言われていた外へ出た。
猫の居た窓際に回り込んで、狭い路地裏を抜ける。
石畳に車輪の跡が刻まれていた。
真っ赤な血が隙間に入り込み、足元に押し寄せる。

「…………どうして?」

首の折れた白猫が死んでいる。
窓のサッシを押し開けた細い腕が、ぺちゃんこに潰れていた。
ゆっくりとしゃがみこみ、乱れた毛並みを撫で付ける。もう、冷たかった。
腕の下に通した手で猫を抱え上げる。力の抜けた身体が、ほんの少しだけ重く感じた。

「………………さよなら。」

街外れの丘の上、ローズマリーの花畑。
爪の隙間に泥を詰めても、白い指先は血に汚れたままだった。
真っ黒にした手で膝に乗せた猫を埋めた。掘り返した土の下に、白猫が眠っている。
夕陽が背中を照らしていた。

「ナーオ!」

猫の声。
吹き抜ける生ぬるい風が長い髪を攫ってゆく。
振り向いた。
般若のような形相をした男が震える両手で銃を構えていた。

――――パァァン!

弾けて飛び出した鉄の玉が、目の前を舞った猫を撃ち抜いた。
真っ赤な血が夕陽の中で飛び散った。
斑に飛んだ血の雫が頬を濡らし、前髪から滴る。

「……………………ごめん、なさい。」

私は、逃げ出した。

* * *

世界中の叡智を閉じ込めた入れ物。
錬金術の基礎と真髄が記された書物、エメラルド・タブレット。
この世の叡智を追い求めて、人々は少女を殺そうとする。
今も胸の中で脈打つ忌まわしき石版に、新しい記憶は書き込めない。

「さあ、行こう。トリスメギストス。」

立て掛けられたケーリュケイオンが優しい声でそう言った。
白い杖を手に取って、少女は歩き出す。

宛てもなく、たくさんの夜をまた超えなければ。

……ローズマリーの、花が散った。




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