Nicotto Town


風花のひとりごと


シナリオハンドアウトとキャラクタープレイの親和性


さて、TRPGの話。
以前にも、私がキャラクタープレイ苦手とかそういった話を書いたことがあるけれども。

でもそれだけではなくて、実はシナリオハンドアウトというものに対しても苦手意識がある。
私の中では、この2つはかなりの部分重なる、というかほぼ同じような苦手意識として統合されている。
というわけで、このことについて考えてみた。

いわゆるシナリオハンドアウトというのは、ざっくりとまとめるならば、PCが舞台となるシナリオの中で開始時にどういった立ち位置にあるのかを説明したもの、と言うことができると思う。
言い換えるなら、今回のシナリオではそのキャラに対してどのような導入になるのかを説明したものだ。
それだけなら、キャラクタープレイ云々とシナリオハンドアウトがさほど強く結びつくということはないように思う。
どんなシナリオにだって当然導入というものは存在するし、シナリオハンドアウトは単にそれをキャラ別に文章化しただけのものだ。

問題は、その運用のされ方にあるのだと思う。

例えば「キミ(PC)は友人と街で偶然再会したが、どうやら友人は何かやっかいごとに巻き込まれているようだ。」的なことが書かれている。場合によってはそのやっかいごとがどのようなものなのかが暗にほのめかされていたり、明示されていたりすることまでもある。
それでPCはこの友人のやっかいごとについて首を突っ込むのか、横で静観するのか、遠巻きに眺めて楽しむのか、そのまま別れて全く別件の事件に携わるのか、みたいなことを考えるわけだけれども。
まあ普通の人ならそのやっかいごとに首を突っ込んで友人を助けるためにあれやこれやと行動するのだと思う。私でもそうする。
シナリオハンドアウトはプレイヤーの自由度を奪う、みたいな物言いをする向きもあるけど、少なくとも私の苦手意識はここで「やっかいごとにかかわらないというような行動はしないよう強制されていると感じるからイヤだ」というような類いのものではない。

実プレイでどういった進行がされるかを考える。
シナリオハンドアウトを見るに、PCと友人が再会して、PCがその友人の抱えているやっかいごとを認識するところから始まるわけだけど。
ぶっちゃけ、「友人と再会して、そのやっかいごとについてシナリオハンドアウトに書いてある内容のところまではPCは把握しました。で、どうする?」というところからプレイ始めるのでイイと思うんですよ。
シナリオハンドアウトにはそこまで導入を簡略化できる機能があると思うんです。
そしてそうであるなら、私のシナリオハンドアウトに関する苦手意識は消え去ると思う。

でも、私が経験するプレイの多くは、ハンドアウトでいろいろ書かれてても「友人と街でばったり出くわした。どうする?」とかで始まるわけです。
いや、どうする?って言われても、ハンドアウトを見る限り、やっかいごとを抱えてそうだと自発的に気づくか、友人から相談されるかのどちらかなんでしょ?どっちでもいいからそのやっかいごとについて説明してくださいよ。とか思ってしまう。
つまりは、シナリオハンドアウトに書いてあることについてプレイするわけですが、この部分を「結果(やっかいごとについて知る)が分かっていることについてどのように演出(≒キャラクタープレイ)するかを求められている」と感じるわけですね。
で、ゲーム開始時からこうなると、全編にわたってこれと同程度の演出なりキャラプレイなりを随所に挟みつつ進行することを期待されているのだろうな・・・と。

シナリオハンドアウトに書いてある部分についてわざわざプレイさせるというのはこのようにキャラクタープレイとの親和性がとても高く、シナリオハンドアウトを使用したプレイというのはこのような運用が多く、よってシナリオハンドアウトにはキャラクタープレイに抱くのと似たような苦手意識を覚える。というように思うのです。
いかがでしょうか。

と、誰に向かってボールを投げているのかも分からないまま、投げっぱなしで終わるw




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