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朝日新聞 ひた隠しにした戦時中の“声”

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https://news.infoseek.co.jp/article/dailyshincho_518694/

朝日新聞「声」欄100周年 ひた隠しにした戦時中の“声”

デイリー新潮 / 2017年3月13日 8時0分

■「朝日新聞」がひた隠しにした戦時中の「声」(上)

 夏目漱石の絶筆『明暗』が、朝日新聞での連載を終えた翌年、産声を上げたのが読者の投稿欄である。今年2月、朝日は開始から100年を記念する特集記事を掲載した。ところが、ひた隠しにしたい暗部には触れずじまい。読者に知られたくない不都合な真実とは――。

 ***

〈今日まで、一番感激して聴いた歌は何であつたらうかと申せば、それは国歌『君が代』を聴く時であつた。(中略)毎日一定の時間にラジオで国歌を放送したならば、どんなによいかと思ふ。(中略)早朝の感激が一日中脳裡にあれば、職域奉公の上にも、どれだけ能率が上ることだらう〉――。

 仰々しくも「国歌」と題された読者からの投稿を紹介しているのは、国歌斉唱を蛇蝎の如く嫌ってきた朝日新聞である。
 これが掲載されたのは戦時中の1941年8月2日。投稿者は傷痍軍人療養所に入所している軍人であることを差し引いても、今の朝日であれば絶対に採用しない内容だろう。

 朝日新聞の読者投稿欄が始まってから1世紀が経つ。もともとは、東京本社版で「鉄箒(てっそう)」と名付けられた随筆欄が始まりで、その後、お馴染みの「声」という名称に変わったという。

 その歴史を紹介した2月5日付の朝刊は、これまでの読者からの投稿を振り返る「声 100年の歩み」と題した特集記事を掲載した。
 この中で、朝日は「声」欄の果たした役割を、
〈政治や社会への読者の思いを伝え続け、世相を映し出し、時に世の中を動かす力にもなりました〉
 と、自賛した上で1917年から現在までの重大な出来事を記した年譜を掲載して、世相を映す投稿を再録しているのだ。

■“弱者の「声」を伝えてきた”?

 さっそく順を追ってみてみよう。大正末期の25年2月の項では、〈婦人参政をめぐる投稿が増え、関連の紙上討論も掲載される。以後投稿欄の主要テーマとなる〉などと当時の紙面を解説し、女性の社会進出に喝采を送る投稿を紹介する。

 次はといえば45年の終戦直後へ一気に飛んで、〈乳児に対する粉ミルクの配給が(中略)減らされました。一体どうして子供を育てよというのでしょう。乳児の生命を護るため、即刻配給を復活するよう、お偉い方々の努力を望みます〉という〈途方に暮れた母〉の悲哀を取り上げる。

 政治の季節と呼ばれた「60年安保」の項に目を移せば、時の岸信介総理に対して〈組織も持たない私たちの声は決して首相の耳には入らない。だからといって、この沈黙が“声なき声”と思われることはたえがたい。私たちはもう黙ってはおれない〉といった投稿を再録。

 戦前から戦後まで、朝日は一貫して時代の荒波に虐げられる“弱者”の「声」を伝えてきた――そんな自負を窺わせる構成なのだ。
 加えて、記事では自ら過去に投稿した経験を持つ作家のドリアン助川氏が、こんな賛辞を送っている。
「『声』の重大な仕事は『語りつぐ戦争』。過去は大事。寄せられた声は国の財産と思っています」
 東京大空襲のあった3月10日に合わせて毎年必ず投稿しているという作家の早乙女勝元氏も、
「『声』を結んでいくことで、戦争は絶対に繰り返さないという思いが未来につながるのです」
 と繰り返し、「声」欄の意義を強調してみせるのだ。

■触れられない戦時中の「声」

 事実、朝日がこの欄を反戦平和の象徴として世にアピールしたいという狙いは、この年譜からみてとれる。

 直近の2015年4月の項では、〈安全保障関連法案に投稿相次ぐ〉と記され、〈「学生デモ 特攻の無念重ね涙」(大阪7月18日、東京・西部・名古屋7月23日)が反響を呼び、各地で朗読される〉として、その成果に胸を張るのだ。
 だが、この記事には不自然な“空白”があった。
 不思議なことに、冒頭で紹介したような戦時中の「声」については、一切触れられていないのである。

 肝心の年譜には、先の大戦について、

31年 満州事変

37年 日中戦争勃発

41年 太平洋戦争開戦

45年 敗戦。食糧不足が深刻に

 と、わずか4つの出来事が淡々と書かれているだけ。
 この間、どんな「声」を掲載してきたのかについて言及はない。
 これでは、朝日が戦禍に苦しむ人々の「声」をどう紹介してきたのか、100年を振り返る記事にもかかわらず、読者にはまったく伝わってこないのだ。

 ならば、戦中の朝日新聞の縮刷版を繙(ひもと)いてみよう。

■「日本は神国である」

 太平洋戦争開戦直後の41年12月12日付夕刊に掲載された「銃後の覚悟」と題した投稿は、筆名で〈愛国生〉と名乗る人物が寄せている。戦勝ニュースで仕事の手を休めてはならないと説くのだが、〈戦時の常として、いろいろと根も葉もないデマが飛ぶことを免れないと思ふが、国民は政府を絶対的に信頼して、公表された以外は、決して軽々しく愚にもつかぬことを、口にしないやうにすべきである〉と息巻くに至っては、大本営発表を是とせよという“暴論”を、朝日はタレ流していたことになる。

 日米開戦直後の42年1月6日付夕刊に載った「西暦反省」という投稿はこんな調子だ。

〈日本は神国であること今さらいふまでもない。しかるに一部新しがり屋の西洋かぶれした人たちが、むやみやたらに西暦をふりまはしてゐるのは、全く不愉快至極である。(中略)一部のインテリとか学生とかの間には西暦使用の観念が、根強く残つてゐる〉なんて怒りを綴り、新年のカレンダーに西暦を使用している国策会社を糾弾する。

 太平洋戦争の真っ只中とはいえ、これも紛れもなく朝日新聞の紙面である。 

 同じく、「競走馬の外国名」(42年5月1日付夕刊)という投書では、戦時下の競馬場に多くの見物人がおり、馬券の売り上げも多いことに驚いた上で、〈それよりも出場馬の名前には一層驚いた。ゼバラツケン、ライアンスモーア、スターサイレーン等々、しかも、これらの馬が出場するのは米英の競馬場ではない〉と言い、もっと日本的な勇ましい馬名をつけるべきだと主張する。

 その矛先は若者たちの在り様にも及ぶ。

「敵国語襟章と学生」(42年6月12日付夕刊)では、東大などの制服に苦言を呈している。当時の学生は、法学部が「J」、工学部は「L」など、各々がアルファベットの襟章をつけていたが、投稿者は、〈たとひ米英がわが盟邦であつたとしても国辱ものであるのに〉と憂えた上で、〈学校当局の米英追随思想にも呆れる(中略)。これが、米英相手に血みどろに戦つてゐる国の学生気質なのであらうか〉と嘆くのだ。

 実際、戦時下での野球では、「ストライク」が「ヨシ」、「ボール」が「ダメ」と改称させられるなど、日常的に親しまれていた言葉が敵性語のレッテルを貼られた。

 なんだか息の詰まる話ばかりだが、それらを朝日新聞が繰り返し掲載して戦意高揚に一役買っていたとなれば、今の読者に知られたくないのも頷ける。

 ***

「朝日新聞」がひた隠しにした戦時中の「声」(下)へつづく

特集「『声』欄100周年でも『朝日新聞』がひた隠しにした戦時中の『声』」より

「週刊新潮」2017年3月9日号 掲載




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