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原爆で被爆しても原爆症が出なかった人たち 1/2

2005年08月16日
原爆で被爆しても原爆症が出なかった人たち―3

 志半ばで倒れるわけにはいかない、重責を担った経営者とその家族のための健康管理と「命もうけ」の知恵のヒントを、さまざまな例やエピソードを通じて、わかりやすくお伝えしていくのが、このブログの目的です。

 先日、テレビを見ていて、20年前の日航機墜落についてのドキュメントをやっていました。

 突如操縦不能に陥った飛行機を、なんとか立て直そうと最後の最後まで、必死にがんばり続けた機長たち。

 自分だってこわいだろうに、急降下していく機内で、お客さんへの避難誘導アナウンスのためのメモを書いていたスチュワーデス。

 「もう、だめだ」と覚悟をして、やはり急降下する飛行機の中で、必死に家族への最後のメッセージを紙に書き残した人たち。

 はじめてひとりで飛行機旅をしていた9歳の男の子の横にたまたま座り、おそらくは、怖がるその子をなだめてくれていたであろう、子ども好きな、お寺が実家の娘さん。

 そこにあるのは、極限状況の中にあっても、自分自身の恐怖心より何よりも、他の人や家族のことを思い、自分の果たせることを最後までやり遂げようとする真心。そこに、まったく私心というものがない。

 これは、もう理屈ではありません。文学などの物語で想像で描くのは容易ですが、現実に生きざまで、命をかけて、あえてそう成し遂げることは、本当にむずかしいことだと思います。

 無我夢中で、自他を超えて最期の行動を取った彼らの姿と心を思うとき、やはり、私は、眼に涙がこみあげてきます。そういう最期を生き切った人たちを、本当に立派な日本人だ、と誇りに思います。

 この8月15日は、60回目になる終戦記念日でした。もちろん誰もが死にたくないに決まっているのですが、それを、国や自らの家族を守るために、あえて 自分の命を投げ出し、若くして死んでいった兵士の方々や、負傷したり、病気で、異国でひとりさびしく亡くなっていった兵士の方々の思いを考えると、胸が詰 まります。

 こういう人たちが命をかけてくれたからこそ、今の平和な日本での自分たちがある、という事実は、つい平和にあきてくると忘れがちになりやすいことゆえ、肝に銘じて、忘れないようにしたいものです。

 さて、先に申し上げた、8月9日に長崎に原爆が投下され、その爆心地から1.4kmしか離れていない場所で被爆したにも関わらず、原爆症が出なかった人 たちがいる事実について、私は、すでに私の著書「体はこうして癒される」(サンマーク文庫)のなかで、はっきり書いています。何が被爆した彼らを原爆症か ら守ったのか、ということについての説明になると思いますので、以下、引用いたします。

 
1945年8月9日、長崎に原爆が投下された。その爆心地から、たった1.4kmのところで、当時浦上病院医長であった秋月辰一郎博士と病院関係者は全員被爆した。

 博士は焼けただれて痛がる人々に、「水を飲んではいかんぞ!」と大声でどなった。おそらく直観的に、血液の濃度を保ち、血液の状態を水でうすめることなくガードしようとしたのだろう。((注)たしかに戦地で、傷の深い重傷の兵士に水を飲ませると、すぐに死んでしまうという記録がある)

 さらに博士は、次のように職員に命令したという。

「爆弾をうけた人には塩がいい。玄米飯にうんと塩をつけてにぎるんだ。塩からい味噌汁をつくって毎日食べさせろ。そして、甘いものを避けろ。砂糖は絶対にいかんぞ」(秋月辰一郎著「死の同心円-長崎被爆医師の記録」講談社刊・絶版)

 「放射線宿酔」と呼ばれる。レントゲンを受けたあとに起こることがある全身の倦怠や筒宇などの症状には、体験上、生理食塩水より少し多めの塩分を含んだ 水を飲むとよいということをとっさに思い出し、原爆の放射能から体をガードするには、塩が有効であることを推理したのだ。みそ汁の具は、カボチャであっ た。のちにわかめのみそ汁も多くとったらしい。砂糖を禁じたのは、砂糖は造血細胞に対する毒素であり、塩のナトリウムイオンは造血細胞に活力を与えるとい う、彼自身の食養医学によってである。

 すると、どうであろう。そのとき患者の救助にあたったスタッフらに、原爆症の症状が出なかったのである。ふつうなら、しだいに原爆症の症状が出て、進行してしまうところなのに、彼らはそれからのち、ずっと現実に生き延びているのである。

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