本当は恐ろしい忠臣蔵のおはなし その11
- カテゴリ: 勉強
- 2019/06/28 16:32:02
執拗な御家再興の嘆願も実らず、元禄15年7月10日に浅野大学長広が閉門の上、広島藩の浅野本家御預となった。事実上、浅野家再興はなくなってしまったのだ。このあと、大石は江戸急進派とともに吉良邸討ち入りへ急速に突っ走ることになる。
このとき大石の頭にあったのは、浅野内匠頭長矩仕置きへの不満ではなく、浅野...
執拗な御家再興の嘆願も実らず、元禄15年7月10日に浅野大学長広が閉門の上、広島藩の浅野本家御預となった。事実上、浅野家再興はなくなってしまったのだ。このあと、大石は江戸急進派とともに吉良邸討ち入りへ急速に突っ走ることになる。
このとき大石の頭にあったのは、浅野内匠頭長矩仕置きへの不満ではなく、浅野...
赤穂藩お取りつぶしののち、大石内蔵助良雄は京都山科に移り、弟君浅野大学長広による御家再興の嘆願を幕府に繰り返し、大野九郎兵衛を欺くために花街で遊んでいたという。モデルとなった祇園の万亭は忠臣蔵の芝居では一力茶屋として描かれ、芝居の大ヒットにあやかって一力亭と名前を変えたという。
討ち入りの時期を謀っ...
元禄14年3月14日、浅野内匠頭長矩は殿中で吉良上野介義央に刃傷に及び、大けがをさせて切腹・御家断絶の沙汰がくだった。
赤穂藩へは二度の早駕籠で事件が伝えられた。第一の早駕籠は早水藤左衛門と萱野三平が乗って浅野の刃傷について伝え、第二の早駕籠は原惣右衛門と大石瀬左衛門が乗って浅野の切腹と御家断絶が伝...
織田信長、徳川家康や水戸光圀であれば、浅野内匠頭は切腹は許されず、間違いなく手討ちになっていた。綱吉の生母桂昌院の叙位のためという理由がなくても、朝廷からの使者を迎える大切な儀式で、失敗がないように念には念を入れて慣例を破ってまで2回目の浅野を選んだにもかかわらず、浅野は殿中で刃傷に及んでしまった。...
大石内蔵助良雄が刃傷ではなく喧嘩としたのは、刃傷ではどうやっても筋が通らないからだ。筋が通らないのに討ち入っても、本人たちの気持ちは晴れるかもしれないがまったく意味がない。なぜなら、大石が目指していたのは仇討ちではなかったから。
「逆説の日本史14近代爛熟編」 井沢元彦著によると。
大石は浅野長矩の...