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芭蕉が愛した木曽義仲 その12

寿永3年(1184)1月20日、六条河原の戦いで敗れた義仲はわずか3百騎ほどで北陸を目指す。近江国粟津(滋賀県大津市晴嵐)で範頼軍の甲斐源氏一条次郎忠頼率いる6千騎と激突する。義仲軍は鬼神の如く奮戦するが衆寡敵せず徐々に討ち取られて散り散りになった。兼平が木曽の旗を掲げて終結した百騎余で一条次郎の軍...

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芭蕉が愛した木曽義仲 その11

寿永2年(1183年)12月1日。義仲は院御厩別当に任官し左馬頭を兼任して軍事権を掌握する。10日に左馬頭を辞するが、頼朝追討の院庁下分を出させて官軍として体裁を整えた。 寿永3年(1184年)1月6日。源範頼を総大将とした鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国に入ったとの噂が京に届く。範頼率いる大手軍3万5...

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芭蕉が愛した木曽義仲 その10

寿永2年(1183年)閏10月20日。義仲は後白河法皇に対して、寿永二年の宣旨について遺恨を申し立てた。玉葉には「其の一は、頼朝を召し上げらるる事、然るべからざる由申すと雖も、御承引無く、猶以て召し遣はされたり。其の二は、東海・東山・北陸等の国々に下されし所の宣旨に云う、もし此の宣旨に随わざる輩にお...

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芭蕉が愛した木曽義仲 その9

寿永2年(1183年)9月19日、後白河法皇は義仲を呼び出し「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」と責め立て、義仲は平氏追討を奏上し、後白河法皇は義仲に剣を与えて出陣させた。 義仲出陣後、鎌倉の頼朝から朝廷に申状が届き、「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還...

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芭蕉が愛した木曽義仲 その8

寿永2年(1183年)7月25日、安徳天皇は平氏棟梁の平宗盛以下平氏一門とともに都落ちする。太宰府を経て屋島に行宮を置いた。後白河法皇は平氏と交渉して三種の神器の返還を求めたが不調に終わっている。 その後、平氏一門は源頼朝が派遣した源氏軍により、一ノ谷、屋島、壇ノ浦で破れ、平知盛、平教経、平教盛、...

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