芭蕉が愛した木曽義仲 その7
- カテゴリ: 学校
- 2021/07/13 16:58:54
義仲の入京は、養和元年に起った大飢饉の影響が強く残っていた時期で西日本一帯が食糧不足に陥っていた。『方丈記』で鴨長明は「又養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず、二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ事どもうちつゞきて、五穀ことごとくみ...
義仲の入京は、養和元年に起った大飢饉の影響が強く残っていた時期で西日本一帯が食糧不足に陥っていた。『方丈記』で鴨長明は「又養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず、二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春夏日でり、或は秋冬大風、大水などよからぬ事どもうちつゞきて、五穀ことごとくみ...
寿永2年(1183年)7月27日。比叡山に隠れていた後白河法皇は、義仲に味方した近江源氏の山本義経の長男、錦部冠者義高に守護されて京へ戻った。翌28日、義仲軍が入京。蓮華王院に叔父行家とともに参上する。お互いに前後せずふたり並んで拝謁したという。30日に開かれた公卿議定により、勲功第一が源頼朝、勲功...
寿永2年(1183年)6月、越前国、近江国を抜けた義仲軍は、入京のため比叡山延暦寺との交渉に入る。義仲の手書(右筆)である大夫房覚明が有名な山門牒状を書いて送る。 義仲倩見平家悪逆保元平治以来長失人臣礼 雖然貴賤束手緇素戴足 恣進退帝位飽掠領国郡 不論道理非理追捕権門勢家不道有罪無罪損亡卿相侍臣 ...
寿永2年(1183年)5月11日。般若野から後退した義仲追討軍は、加賀国と越中国の国境にある砺波山(富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町)に平維盛、平行盛、平忠度ら7万余騎、能登国志雄山(石川県羽咋郡宝達志水町)に平通盛、平知度ら3万余騎の二手に分かれて陣を敷く。義仲は源行家、楯親忠らの別働隊1万余騎...
寿永2年(1183年)2月23日、下野国野木宮(栃木県下都賀郡野木町)で志田義広(源為義三男、義賢の同母弟)と源頼朝方の小山朝政との戦があり、志田義広は敗れて木曽義仲の群に加わった。 以仁王の令旨を持って全国を行脚した源行家は、治承5年(1180年)3月10日の墨俣川の戦いで、長男光家、次男行頼、...