Nicotto Town


ふぉーすがともにあらんことを、あなたにも。


普遍性

普遍性についてです。

まず申し上げておくと、

普遍性とは本来ないのものです。

強いて言うなら、

現在時制のなかに
なんとなーくみんなが普遍的だと思うもの

のような結晶のかたまりがあって、

それが普遍性だと思います。

つまり、なんとなく中心に結晶のようにあるもの
が普遍性で、

ただ漠然となんとなく存在しているものなのでは
ないでしょうか。

普遍性はこういう言い方も出来ます。

A.スイカが割れたのなら、捌いて食べるべきだ。

B.スイカを食べるために、スイカを割った

C.スイカを食べるにしても、割るのはちょっとやりすぎだ。

D.割れたのなら、仕方ない。スイカを捌いて食べよう。

全部描いているものは違いますが、
基本的には同じ“はず”です。

ただ、捉え方が違う。

Cのケースでは
割る気はなかった。

Dのケースでも、割る気はなかった。

AとBは、割合主体的に捌いていますね。

特にBは、最初から自発的に割っています。

Aは、どちらかというと観察的です。

Dは、傍観者ですね。

この普遍性に関する文章は、
次のことも言えます。

誰が何をしたかによって、普遍性は変わる。

つまり、誰が主体になるかによって
普遍性は変わるということです。

(ということは、誰が何をしたかによって
事実は変わるということです。)

普遍性をあえて言葉で表すなら、
ただそこにある漠然としたもの、ですが

もしそこに漠然とあるとしたら、
それは明確に役割と仕事が決まっていないと
いけないわけです。

普遍性にも、仕事はあります。

ただ存在を維持することが、仕事なのです。

このケースは、こういう言い方もできる。
普遍性にそのままいてもらうために、
時制すらいじってしまいますよ、と。

普遍性は、時間からみれば邪悪の帝王といったところです。

動かないのに、自分を維持しろと命令する。

時間は普遍性には逆らえませんが、
普遍性は時間性をも捻じ曲げ得ます。

ただ、歴史の中の普遍性はない。
あるとしたら、宗教のようなとても根強い
一本の筋のようなものだけです。

宗教性だけが、歴史上の普遍性だともいう
言い方もできる。

それは、宗教がいままで歴史を重ねてきたからです。

宗教だけが何か特別だったから、とか
宗教だけが特権があるから、

という場合とは違います。

ただ、単に
これは普遍性だ、

と言えるものが

たまたま宗教しかなかっただけであって

強いて言うなら
宗教も伝統宗教学の立場から言えば
末肢の一部に過ぎず

その場合の普遍性は
インドのアカシックコードのような
大いなるなにか

ということになる。

でもその場合の普遍性は、
あまりにも漠然としていて説得力がありません。

あくまでも、
歴史に支えられたものが普遍性となるなら、

宗教や文化が普遍性となるのではないでしょうか。

ただ、その場合も単なる束縛というレッテルが
常に付きまといます。

本当に普遍的なものは、
文化のなかだけにしか
ないのではないでしょうか。


文化の中にあるものを、
普遍的だとするのなら、

今度はその文化を
誰が作ったのか

という話になります。

この場合の普遍性は、
時はそれを眺めているから
普遍的である。

という風になります。

ただ、時間は移ろうものなので
時も普遍的ではありません。

この場合に普遍的にであるのは
文化は積み重ねれば文化

というロジックになります。

この場合も普遍的でないとすれば、
文化を作ったのは大いなる何かであるから
それには手出ししようがない。

というのが普遍性になります。

ただ、この場合も仰々しすぎて
結局積み重ねが文化

というロジックが一番
「現在時制」という意味ではあっている。

ただ、現在時制もひとつ時が経ってしまえば
過去であり未来なので

時が常に変わるものだとすれば
文化というものが存在するなら
それは文化。

というロジックが一番合っていることになります。

この場合は、歴史そのものがなかったら
というのが一種のキーになりますが、

ただAはAであるためにA、
というロジックになるので

この場合は整合性から言って正しいことになります。

つまり、文化は文化であるなら文化
というロジックです。

この場合は、文化であること、が
文化であることを補っているので

「歴史がなかったら」ロジック以外に
これを破る術はほとんどありません。

ただ、この場合も
何を文化とするか

という壁が常に立ちはだかります。

それが分かれば、
おそらく文化の研究では苦労することが
ないでしょう。

何を以て文化とするか、が分かれば
そもそもその人がどこの文化圏にも属さず
独自の文化を築いて生きてきたことになります。

この場合は、文化というものを確立するためには
文化というものを利用するしかない、

というのが一種のロジックになっています。

この場合は文化がキーなので
文化の鍵を開けるキーが
文化ということになります。

逆に言うと、
文化は文化でしかない。

歴史の中に忽然と流れるものがあれば
それは文化なのです。

ただ、現在時制から見た普遍性とは違う。

普遍性とは、現在の流れの中で
「これは普遍性だ」と呼べるものであって

結局時制が絡むと
普遍的ではなくなってしまうのです。

つまり、過去になれば普遍性はない。

文化が割合普遍的であるのは、

文化という言葉が現在の文化も表しているから
なのです。


この場合に言えることは、
文化は現在時制で文化なのであって

過去にさかのぼるとただの遺物である
ということです。

未来なら、統治プラン
ということになります。

この場合は、

今あるものが文化なのなら、
なんでも好きに変えてしまっていい

ということになります。

この時点で、文化は普遍的ではありませんが、
民族の好き好むものが

変化すること、なら

現在における文化の変遷も、

短期で文化が入れ替わる状態も

なんにもおかしくありません。

むしろ、文化は変化するものである
ということが言えます。


文化は、
現在時制において
普遍的であると言えます。

ただ、
もし時制がなかったら

今やっていることだけが
普遍的である、ということになります。

(人が積み重なることが文化なら、
そのパターンでも十分文化は形成できますが)

現在やっていることが普遍的であるなら、
未来の発展はあるのでしょうか。

この場合も、未来の発展はありません。

あるのはしがらみだけです。

現在時制の中に、
ただ漠然とあるものを普遍性と呼ぶのなら、

現在時制が崩れること以外に
その普遍性は普遍性でなくなることは
ありませんから、

ただ忽然とあるものが
普遍性、という言い方が一番正しいのでは
ないでしょうか。

長かったですが
普遍性とは大抵こういうものです。

ただ、未来にチャレンジするのなら
普遍性は現在時制の中の文化でなければいけない。

現在にただ漫然とあるものなら、
邪魔になってしまいます。

本当に普遍的なものを求めるとしたら、
本当に普遍性を求めるとしたら、

それは己の過去しかないのではないでしょうか。

ただ、過去も結局しがらみでしかない。

そうなると普遍性はただのしがらみである
ということも言えます。

ということは、

普遍性は、とか
普通は、という言葉は

ただの足かせでしかないのです。

本当に自分を追い求めるのであれば、
普遍性など必要ないのかもしれませんね。





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