平泉の逸話
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- 2011/07/03 11:08:02
平泉には今もそうですが北即ち北海道に繋がる道は多くあります。
それと同時にその地の人しか知らない道言わば隠し通路も有ったと言われてます
そして生まれたのが
義経生存説です
歴史に詳しい人にはおなじみですが義経は逃れ北へ渡りモンゴルへ渡り
チンギス・ハーンになったと
これは一時話題になりました
しかし研究した結果
江戸時代には林羅山や新井白石らによって真剣に議論され、水戸光圀などは蝦夷に探検隊を派遣するなど、重大な関心を持たれていたが、沢田源内の金史別本などが嘘だとわかり、それ以来学術的には否定されてきた。シーボルトがその書「日本」で主張したあと、大正末年に小谷部全一郎によって『成吉思汗ハ源義經也』が著されると大ブームになり、多くの信奉者を生んだ。大正時代から学者の否定が目立つようになった。東北・北海道では今も義経北行説を信じる人が多い。
室町時代以降、いわゆる「判官びいき」から生まれた「義経不死伝説」が「御曹司島渡」説話と結びついて「義経北行伝説」が成立し、近代にはいって『義経再興記』によって「成吉思汗=義経伝説」へと発展した。戦後は高木彬光が1958年(昭和33年)に『成吉思汗の秘密』を著して人気を博した。しかし、生存説は俗説にとどまり、学術的な説に発展することはなかった。
伝説は、新たな時代状況や新たな知見と結びついて、飛躍し、発展する。「成吉思汗=義経」伝説はその典型的な例であり、上述のように、先行する伝説をもとにしてウェスタン・インパクトとそれへの対応という契機によって生まれた。それはやがて、ついには満州国建国をもたらす人々のエネルギーの源泉となるなどの影響を及ぼした。
ジンギス・カンについては生年や前半生が不明な点が多いことや、口伝による歴史伝達など裏づけ部分が不明なことが多く、この説の決定的な否定の材料に乏しいことも事実である。源義経に関しても信頼できる資料は『吾妻鏡』であるが、22歳のときに駿河の黄瀬川に陣を布いた源頼朝を訪ね、兄弟の対面した記録が最初であり、その前には地方を放浪して「土民」(土人)や「百姓」に使われていたとあるだけで[1]、不明な点が多い。
な結果となり最大の決め手はチンギス・ハーンの出生がはっきりしたことで全面否定となったわけです
生きてて欲しいとの願いも有ったのでしょう
長文失礼致しました。
そうですね当時は殺伐した時代ですので色恋沙汰ってのは皆無に等しく義経と静御前の愛はまさに
純粋な愛でした。
しかし義経は男であろうと可愛い部下の為なら命を惜しまない人で義経には正妻もおりその間にも娘もおりまして普通なら正妻捨てて静御前に行ってしまうって事が多いですが義経の場合は公平に愛し子供も愛して
いました。
また頼朝に疎まれても義経は恨まなかったと逸話が残ってます部下思いの武将は多いですが
義経、静御前との美しい愛の物語は中々見つかりません。
何故なら当時色恋沙汰は戦国時代に取ってはどうでも良い事と取っておりまた歴史上のこされてるのが
非常に少ないのも事実です。
更に室町幕府、そして信長、秀吉、家康の登場で女性は余計扱いが悪くなったのも事実です。
それだけ当時女性は子供産む道具としか見てなかったと思われます。
それだけ義経と静御前との愛は未だ色々な作品で登場されるのでしょう
義経は非常に部下思いの上家族愛をも大事にしてたと歴史に残ってます
また非常に度胸も有ったのです。
崖から多くの兵率いて奇襲をかけるこれは危険かつ考えられない行為でしたしかし義経は一頭の鹿を見て
「鹿が崖降りられる馬だって降りられる私に続け」
その大胆な攻めに多くの兵士が慕った説も有ります。
頼朝の為そして部下の為に多くの活躍しましたが純粋過ぎたかもしれませんね
これこそ義経の良い所でも有ります。
その通りです義経は牛若丸時代平家の命令で幼児期に育った寺で僧として育てるのなら生かすって条件でしたのですしかし源氏を盛り立て平家打倒の為金売り吉次義経の父の部下の導きで奥州藤原へ向かって
不和さんの仰る通りになったのです。
藤原秀ひらは義経を暖かく向かえそして後熱田神宮で義経と名乗り佐藤継信、忠信、伊勢乃義森、弁慶等の
部下を向かえ頼朝の元へ向かいました。
義経は青年時代、平泉で奥州藤原氏に庇護されて育ったという話がありますね。
これは史実なんでしょうか?
死してもなお、贔屓される人徳はどこからでしょうね。
それとも、日本人のDNAからなのかな?
こういったエネルギーがどこかで現代の二次創作などに受け継がれているという気がするのですが。
日本人は昔からパロディとかも好きですしね。