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三魅せつな33変人日記


どう評価する?劉禅


劉禅と言うのは三国志蜀軍皇帝劉備の息子です。

遥か昔蜀軍崩壊後市民は彼の名を使ったあだ名が出来ました。

阿斗これは劉禅の幼名です。

いわゆる根性なし臆病者に阿斗ってあだ名が付けられる事があったのです。

では何でこうなったか御説明致しましょう。

まず父劉備は人々の為に戦った武将で民に人気が高かったのです。

後長坂の戦いで彼は置き去りにされますそれを知った趙雲は命がけで救い出し

その戦いで産みの母を亡くしました。

そして2代目皇帝に立ちますが

西暦263年彼は全面降伏しました

その為蜀市民は怒り「戦って死ぬならまだしもこうもあっさり降伏するとは!」

と激怒「先帝の思いを無駄にした」

と散々劉禅を批判しました。

しかしこの時代乱世今はどうでしょう・・・

劉禅は武力はイマイチでしたが

人を思う気持ち民を思う気持ちは父劉備譲りだと思います。

要するに彼は三國の時代には優しすぎるって所が有ったと思います。

即ちこれ以上戦ってもただ兵や民が死ぬだけ

それと長坂で趙雲が助けてくれたのもあります。

結果として助けてくれた趙雲は生きていたから良かった物の

もし自分の為に死んでたら・・・

等と思い早めに降伏に至ったと思います。

この様に乱世の時代では「臆病者」と言われましたが

今はどうでしょう?もう戦っても衰退一方の蜀でした

自分が批判を受けるだけで済めばこれ以上民、兵を無駄死にせずに済むと思った

劉禅の行為は勇気有る撤退だと思います。

後劉禅は幽閉されその幽閉地で生涯を終えました。

その幽閉地でも彼はそこの民と仲良くしてたとの事です。

実際賛否両論に別れる劉禅ですが

私は違う意味で勇気有る方だと思います。

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2011/07/19 14:29
綾崎アキラさん有難う御座います。
乱世が始まったのは劉禅が降伏して80年位前だと思います反董卓から始まりそして呂布が董卓殺害
そして198年呂布も曹操の処刑されますその後長坂、赤壁、五丈原と多くの戦が起きます。
その間何万人いえ何十万人死んだ事でしょう。
もう当時の民も嫌でしたでしょう劉禅ももう終わるべきだと思ったのかもしれません後に魏も司馬一族に
乗っ取られ呉も度重なる戦で次々と国力を無くし崩壊の一途を辿りますひょっとしたら劉禅はそれを
予測してたのかも知れません
勇気ある撤退…どこぞの国の政府与党に聞かせてやりたいです

>これは日本の一番悪い癖で第二次世界大戦でも原爆投下の前にアメリカは日本に対して
無条件降伏要求しました。しかし当時の政府は面子にこだわりそれを拒否しました。
その為アメリカは広島に原爆投下・・・史上最悪の事態となりました
今回の原発もこうなる危険性が大きいですこれ以上無駄な真似すると取り返しがつかなくなる事態も
事実です正直否を認めて早く解決しないと被害は原爆投下と同じぐらい酷い結果になってしまいます。
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2011/07/16 22:11
劉禅は優しすぎるのかぁ。
確かに、そう言われて見れば、納得がいきます。

勇気ある撤退…どこぞの国の政府与党に聞かせてやりたいです。(笑)



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