Nicotto Town


三魅せつな33変人日記


私達の疑問


私が中学の時の話です

藤原鎌足の墓を掘り返し藤原鎌足の遺骨を調べたってニュースが有りました。

その時とんでもない事が判ったんです。

毒を盛られた形跡がある。

これは一時議論になり

藤原鎌足は歴史上病死になってます。

しかし毒が見つかったので毒殺説が出てきた訳です。

では藤原鎌足について御説明致しましょう。

元は中臣鎌足と言います。

彼は当時やりたい放題の蘇我氏を何とか失脚あるいは滅亡させたかったんです。

そこ中大兄皇子に何とか進言したかったしかし中臣鎌足は身分が低いので

適いませんでしたその時歴史が動きました

けまりしていた中大兄皇子があやまってけまりを蹴り損ねて靴を飛ばし

偶然にも中臣鎌足の所へ靴が飛んできた訳です。

そこで二人はほぼ運命的に近い出会いをします。

そこで鎌足は蘇我氏討伐の計画を立てます。

そして鎌足はこう提案します

「645年6月朝鮮の使者がやってきて儀式を行いますこのとき蘇我入鹿は
朝鮮の使者の友好を示す為に刀は持って来ません部下も少数でしょう。」

これは当時猛威を振るってた蘇我氏に歯向かう人は居ない

当時蘇我入鹿は聖徳太子の息子山背大兄皇子(やましろおおえのおうじ)を

死に追いやっており民朝廷も恐怖してました

また同時に蘇我氏を憎む者も増えてきました。

しかし蘇我氏は勢力拡大してた為討伐はままならぬ有様でした。

そしてようやく鎌足の言う好機が訪れます。

また入鹿は今や天下は蘇我氏自分達に歯向かうものは居ない

その為部下が「刀は御預かりします」って言葉にも

簡単に頷き儀式が行う場所に入ります。

そこで待ち伏せしてた中大兄皇子等討伐派は仕掛けようとしますが部下が

中々緊張して出来ません業を逃がした中大兄皇子はが自ら斬り掛かり

入鹿の首を跳ねます。

この光景を絵にしたのを多武峰縁起絵巻(とうのみねえんぎえまき)

に描かれており父蘇我蝦夷(そがのえみし)はそれを聞いていずれこちらにも

やってくると思い自宅に火を放ち自殺します。

当時は蘇我氏の実権はあくまで蝦夷でしたが実行に移してたのは息子の

入鹿でしたまた山背大兄皇子を死に追いやったのはあくまで入鹿で

蝦夷は反対してと言う意見も有ります。

また蝦夷はもうかなり老いてました為入鹿が居ないとそう彼の力はそう大きく無かった

のです。蝦夷はそれを判ってた為自害したと思われます。

そして蘇我氏滅亡後中大兄皇子は天智天皇となり中臣鎌足も右腕となり

悪化した政治を次々と直しました。

これを大化の改新と言います。

669年中臣鎌足没後天智天皇はこの功績を認め当時の最高の位

「藤原」の性を与えました。

さて・・・最初の藤原鎌足毒殺説ですが当時の調べた結果

毒を盛ったのは天智天皇の弟天武天皇ではないかと言う意見が有ります。

理由は不仲では・・・とただ結果1500年近くの前ですので結論が出ないで

終わりました。

又大化の改新は次々と画期的な法案を立てましたが

近江は遠いとの意見で次第に評判が悪くなり天智天皇の弟天武天皇に人気が

集まって来ます。

天智天皇は死の間際天武天皇に「後を継ぐ様にと」頼みます。

天武天皇は「僧になりますしかし兄の思い受け継ぎます」と答え

天智天皇は亡くなります。

後天武天皇は天智天皇の息子と対立し息子を討ってしまいます。

天智天皇は日本最初の時計を開発した人でも知られています。

上の水桶から水が段々水桶に流れて行き一番下の水桶に流れると

一番下の水桶に刺さってる矢が浮いてきます。

これを12に分けて今の時計の123456789101112ですね

要するに時刻が変わった時に2時から3時に変わりましたよって鐘を鳴らし

人々に時間を知らせたこれが日本初めての時計の誕生です。

さてここでも今の政治と若干共有します

大化の改新は2009年自民党大敗に起きました。

例えると蘇我氏=自民党蘇我入鹿=麻生太郎

中大兄皇子=小沢か鳩山中臣鎌足=前原、岡田


そして2009年小沢と鳩山は蘇我入鹿演じる麻生太郎の首を跳ねます

そこまでは歴史通りですしかし

間違った大化の改新が起きてしまった

これは次のプログでご紹介します。

ちょっと長文になってしまいましたので。




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