Nicotto Town


安寿の仮初めブログ


雨のノイエンガンメ強制収容所 その2


ノイエンガンメ強制収容所は、
私が今いる都市から、
電車とバスで45分ほど。

でも、ドイツですから、
すぐに都市の郊外の風景となり、
電車はやがて農村の風景を走ります。

そして、バスに乗り換えれば、
バスの車窓からは、草葺き屋根のドイツの古い住宅を眺めることができます。

ノイエンガンメはそんな街であり、
その街の尽きたあたりにノイエンガンメ強制収容所はありました。

しかし、ここが強制収容所だと言われなければ、
それとは気がつかないような、何かの施設であるように見えるだけです。

実際、私たちは降りるバス停を間違えて、
二つぐらい手前で降りてしまい、
片側は広大な牧草地、
片側は所々に倉庫のような建物が立つ広大な敷地、
その真ん中をまっすぐ伸びる道路を歩いて行ったのですが、
いくら歩いても、バス停を二つぐらいやり過ごしても、
それらしい施設が見当たらない。

で、道を歩いてくる人に尋ねたら、
なんとその人が、今日の私たちの案内役の人だった。  ☆\(ーーメ

  (バス停で待っていても、バスから降りてこないので、
   遠くから歩いてくる私たちが、それではないかと思って、
   こちらに歩いてきたらしい)。

そして、ノイエンガメ強制収容所はどこですかと聞けば、
「君たちが歩いてきた片側がすべてノイエンガメ強制収容所だよ」とのこと。

広大な敷地の中にぽつんぽつんとある何かの施設は、
すべて強制収容所の施設だったのでした。

もちろん、かつて収容所であった時のように、
鉄条網で周囲が仕切られているわけではありませんし、
過酷な労働を強いられている人々の姿が見えるわけでもないので、
言われなければ気がつかないのも無理はないのですが、
同時に、この広大な敷地や森の中に点在する施設は、
すべてがひっそりと落ち着いた感じで佇んでいて、
死や恐怖や絶望の対極にあるかのような、
平和な静寂さを保っていたのです。

ですが、この静けさは、墓地の静けさだったのでしょう。
ドイツ語で墓地は、Friedhof 
直訳すれば、「平和な中庭」。 

案内人のひっそりとした声と、
「次へ行きましょう」と無言で促す手は、
墓守のそれを思わせます。


でも、安寿は、
この人たちの死によって、
初めて平和が訪れるのであっては、
何かいけないように思うのです。

安易な平和を拒否すること。
そして、この人たちの死を記憶すること、
今はもう聞こえぬ声を、その姿を、
今において聞くこと、思い浮かべること、何度でも。

  そこから私たちは始めるべきなのです。


展示室は暖房が効いていましたが、
展示室とは別に、広大な敷地の中に立つ施設も、そのいくつかが見学できます。
  (今回は案内人がいたので利用しませんでしたが、
   オーディオガイドもあるようです。
   広大な敷地のところどころに、
   オーディオガイドのナンバーを示す案内板が立っていました)。

その一つである煉瓦工場に入ってみました。

この工場もとてつもなく大きいのですが、
工場の施設や機械はもう何もありません。
したがって、大きながらんどうの、倉庫のような建物があるだけなのですが、
その片隅に、ここでの労働を展示した案内板が立っています。

煉瓦の材料となる粘土を運び、トロッコを押し、
焼き上がった煉瓦を運び、トロッコを押し…。

建物から出てきた時、誰かがつぶやきました。

  「外の方が暖かい…」

確かに昨日までの寒波は弱まっていますが、
しかし、今日は一日中、雨なので、
決して暖かいと言える天気ではありません。

ですが、がらんどうの工場の中は、
外よりも、それ以上に冷気で冷え切っていたのです。
ですから、外に出たら、確かに暖かく感じたのです。

  … 皆、無言になってしまいました …

最後にこの収容所での犠牲者の名前を、
布に記して吊り下げている記念堂を見学しました。

強制収容所の開設と同時に、死者の名前が始まります。
ところどころに、ここを訪れた犠牲者の家族が行ったのでしょう。
犠牲者の名前の横に、その人の写真を貼り付けてあったり、
足下に小さなプレートが置いてあったりします。

死者の名前は終戦以降も、しばらく続き、
そして、現在になってようやく名前は途切れるのですが、
それは、もう犠牲者はいないという意味ではありません。
まだ、わかっていないという意味です。
ですから、
名前の記されていない布は、
そのまま床にまで垂れ下がり、
新たな犠牲者の名前を記すための余白として残されています。

つまり、沖縄の摩文仁の丘の慰霊碑のように
新たな犠牲者が分かった時に、
更にその名を刻めるように、
余白を設けているのです。

この記念堂の記録の元になっているのは、
強制収容所の収容者名簿。
それも黒い布に覆われたガラスの中に展示されていました。

収容者の名前と収容所ナンバー、出身地と生年月日、そして死亡日時と死因。
ある名簿では、ほとんど10分単位で死亡日時が書き込まれているのでした。

帰りのバスを待つ間、
記念堂のそばに立つ記念碑を見てきました。
そこにはここを訪れた人々が献花していった花輪が雨に濡れていました。

そして記念碑には次のような言葉…

  あなたたちの苦しみ、
  あなたたちの闘い、
  そしてあなたたちの死を、
  無駄にすべきではない…

でも、雨は降り続いています。
世界中で雨は降り続いています

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2012/11/21 04:44
>Luciaさん

ノイエンガンメ強制収容所も、
一応「ユダヤ人問題」の「最終解決」…、
つまり、「大量虐殺」を行った施設ではありません。

ですが、飢えや過労、
劣悪な生活環境と暴力と病気で、
「最終解決」に送られる以前に、
多くの人を葬り去っていたことは疑いありません。

そして、当時のドイツ社会もまた、
強制収容所で何が行われていたのか、
その詳細は知らずとも、
「彼らが、どうなっても知ったことではない」
と無関心だったのでしょう。

ですから、
私たちの日常と「最終解決」の強制収容所は、
隔絶された別世界ではなく、
地続きなのです。

「ユダヤ人」と名指しされた人たちから見れば、
ドイツ人社会から強制収容所までは、
排除の強度に違いこそあれ、
一貫して排除の力学が働いていた点で地続きであったはずです。

今、私は、
ドイツの地において「外国人」なので、
排除の力学が働きやすい位置にいます。

明らかに排除されているわけではありませんが、
しかし、なかなかクラスに馴染めない生徒のように、排除されやすい位置にいます。

もし「排除」された場合、
そのような振る舞いに対して抗議したりすると、
「さっさと帰れ」と言われるのでしょう。

ですが、私のように「帰れる場所」がある人は、まだましです。
この学校にも私のクラスにも帰る場所のない人が、たくさんいます。

帰れないからこそ、ドイツ語を勉強しているのですが、
しかし、そういう事情まで理解できる人は、どこの国でも少ないようです。
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2012/11/20 20:00
イタリアにも強制収容所は点在していました
いくつかはドイツ直属
いくつかは最終収容所ではなくアウシュビッツの前の一時収容所

1944/1/30 ミラノ中央駅21番線
イタリアから初のアウシュビッツ行き列車が発ちました

毎年、1月下旬になるとメモリアル特番が組まれます
記憶を風化させない為に



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