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四択の答え&今日は何の日@6/20



「ペパーミントの日(日本)」(ウィキより)
ハッカが特産品の北海道北見市まちづくり研究会が1987年(昭和62年)に制定。「はっか(20日)」の語呂合せ。6月は、この月の北海道の爽やかさがハッカそのものであるとのことから。


「ニホンハッカ(日本薄荷)」
(学名:Mentha canadensis var. piperascens)
日本在来のシソ科ハッカ属の多年草。国外では通称、ワシュハッカ(和種薄荷、Japanese peppermint)と呼ばれている。単にハッカ(薄荷)ということもある。ハーブの一種。

「生産の歴史」(抜粋)
日本では、換金作物として、安政年間に岡山県や広島県で栽培が始まった。明治初期にかけ主産地が山形県に移ったあと、移住者によって北海道で生産が始まった。1890年代には、旭川市で山形出身の石山伝兵衛が、北見国湧別村四線(現・紋別郡湧別町)で会津若松にあった薬種商出身の渡部精司が、湧別村学田農場(のち遠軽村、現・紋別郡遠軽町)で山形出身の小山田利七が、それぞれ本格的なハッカ栽培を手がけた。
その後、野付牛屯田兵の伊東伝兵衛らが、屯田兵解隊前後の1902年、野付牛村(のち野付牛町、現・北見市)でハッカ栽培を開始。反収の高さから一般の開拓農家の注目を集め、網走管内一円で爆発的に作付面積が拡大した。
昭和に入り、それまで取り扱っていた農産物の価格低下に直面した北海道信用購買販売組合聯合会(現・ホクレン農業協同組合連合会)が、ハッカの安定的な高値買い付けを求める農家の要望を受け、民間業者に代わって取引に進出した。
北聯は1932年、遠軽村に「北見薄荷工場」の建設を計画したが、工場用地寄付に応じる形で野付牛町に予定地を変更。翌年工場が完成した。操業5年目の1938年の同工場取卸油は、当時の世界の生産量の7割を占めるまでに至ったが、日中戦争の激化に伴う国の統制強化で、大規模な減反を余儀なくされ、一時生産が途絶えた。
戦後は、北見市を中心に23市町村の農家が薄荷耕作組合を結成。
1951年以降、収油量や芳香性の向上を目指し、北海道農業試験場遠軽試験地(遠軽町)で寒地品種8品種が開発され普及した。特に「ほくと」は現在でも園芸店などで販売されている。
ホクレン北見薄荷工場も1983年(昭和58年)のハッカ輸入関税引き下げのあおりを受け、同年閉鎖した。
北見市は北見薄荷工場の旧事務所を北見ハッカ記念館として改装し保存しているほか、同市仁頃地区にハッカ畑を設けた「ハッカ公園」を造成。公園産ハッカを原料とした製品づくりにも取り組んでいる。




Q.見るのが好きな陸上競技は?
「マラソン、ハードル、リレー、ハンマー投げ」

★四択クイズの答え ⇒ 「マラソン」




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