Nicotto Town


グイ・ネクストの日記帳


エゴは私なのか。少なくとも私はそう思う。


エゴ。心理学か、奇跡のコースではたびたび出てくる言葉。


エゴ。それは生まれた時より、あなたと共にあり、消える事を殊更に恐れ。


何よりも自分という存在を「特別視」させて、優越感を抱き。

本体である「根源なる生命の源流」から遠ざけようとする。

私たちの意識はエゴと対話しながら、物事を決めたり、決められたりしている。

エゴは本当に用意周到である。

先回りして、あなたを自然に落ち込ませ、悲しませるのだから。

そうやって、孤独感をつのらせるのも・・・またエゴの仕業・・・。

五感を感じたまま、それが本体だと思わせて、自分が消えないように、消えないように私たちを自滅させようとしてくる。

それがエゴのある意味、生きる意義であり、存在理由であり、アイデンティティ。

さてさて・・・この用意周到なエゴと、間違っても対決してはいけない。

対立してもいけない。

ただしずかに、視る。

視るのが、苦手なら「聴く。」

「ああ、あいつが不幸になって、俺は、私はうれしい」と。心に湧き上がってきたら、それを聴く。視る。

認めてやる。

ああ、そうなんだ。ストレスが溜まっているな。と。

実はこの認めるという行為が・・・エゴという用意周到な悪魔をおとなしくする特効薬なのだ。

正確にはおとなしくなるのではなく、悪魔は自ら心臓を差し出して、光の中へ消えて行く。

エゴは否定される事、拒絶される事にはすごい力と用意周到な作戦であなたを逆に操るが。

認めてもらえる事には、無防備どころか、自ら心臓を差し出して、死を選ぶのだ。

本当は認めてほしいだけなのだ。

あなたは聖人君主な時も???

あるかもしれない。

だけど。

心に湧き上がって来るのは、ある程度ストレスが溜まれば

自然と他人の不幸を望んだり、あざ笑ってしまったり、ええもう、どうしようもない悪循環に落ちていってしまっている。

それが私なんだ。オレなんだ。

そう認めてやる。

そこからしか「歩けない」と知る。

するとエゴは心臓を差し出して来る。

一緒に歩き出してくれる。

天使と悪魔が手をつないで、歩き始める。

龍が見えるようになる。

かっぱ、妖精、座敷童たちがごく自然に見え始める。

そして彼らは決してあなたを怖がらせたくて現れたりはしない。

あなたを導くためにひょっこりと現れる。

エゴと和解できれば・・・「地獄」は消える。

魂の旅をさせてもらえた。

地獄という場所は「五感があってこそ、地獄なのだ」

本体へ還る旅の途中で、五感は実は仮のモノと分かる。

この分かった瞬間が、天国であり、極楽浄土なのだろう。

そう、そこが本体へ帰還したという事。

本体をすぐに思い出せる人は(かみさま)

そもそも地獄になど行かない。

自分が思い描いた通りの世界へ行く。

何故なら、あなたは「主神」そのものだから。

それが誠に死という旅の始まりであり、死は最高のプレゼントになるだろう。

ただ「本体へ戻る」と、魂の経験値が増えないのだ。

肉体である時はある意味、魂のみでする経験を50倍も100倍も濃縮して経験している。

そこが、肉体を持つ、魂の経験値をたくさんもらっているボーナスタイム。

だから私は、オイラは

まだまだ地上で生きていたい。

これだから人生は面白いと騒いでいたい。




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