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海外移住の日


こんばんは!18日(水)は、

北海道では午前中は雲が広がりやすいものの、次第に晴れるでしょう。
その他の地域は概ね晴れますが、
関東甲信や九州南部、南西諸島ではにわか雨や雷雨の所もある見込みです。

【海外移住の日】 ①Overseas Migration Day

          ②International Migration Day

☆用語の説明

 ①:日本からの海外移住を特に強調する場合に使用します。
    これが一般的な表現です。

 ②:より広範な国際的な文脈において、
   移住を祝う日として使用されることが多いです。

★海外移住の日は、
 1908年に日本からブラジルに移住した158家族の到着を記念しています。
 日本人は約113万人が海外で生活をしていて、
 北米が最も多く、アジアと西欧が続きます。

<概要>

〇海外移住の日

@歴史
 
 この日は1966年(昭和41年)に、
 国際協力事業団さんによって、制定されました。

 しかし、その背景にはもっと遠い歴史があります。

 1908年(明治41年)の同じ日、笠戸丸がブラジルのサントス港に到着し、
 日本からの本格的な海外移住が始まりました。

 ☆海外移住に関係する4つの実施期間
 
  戦後の海外移住関連の実施期間は統廃合の歴史を歩んできました。

  1952年の海外移住の再開以降、
  政府は激増する移住業務に対応する為の組織づくりを急ぎました。

  外務省に移住関連の部署を設置するとともに、
  「移住懇談会さん(後の海外移住審議会)の提案を踏まえ、
  各府県の海外教会等の諸団体を纏(まと)める中央機関として、
  「日本海外協会連合会さん(海協連)」が設立されました。

  海協連さんは移住者の募集や選考、渡航(費用貸付)、
  定着支援等を担いました。

  特に移住者は急増する中で設立されたことから、
  JICAさん扱い(前身組織含む)送出人数の4分の3以上が、
  海協連さんの次代のものでありました。

  1955年にはアメリカからの借款を原資として、
  「日本海外移住振興株式会社(移住会社)」さんが設立され、
  移住者向けの入植地の土地購入や造成、分譲、資金の貸付等を担いました。

  移住会社さんは「直営移住地」の大半を開拓しました。

  移住地には先方政府等が提供したものの他、
  日本側の移住期間が設置、管理、運営してきた、
  「直営移住地」が20以上ありました。

  その後、移住者送出数が減少していく中で、
  行政機構の一元化による業務効率化を図る目的から、
  海協連さんと移住会社さんは合併され、
  1963年に「海外移住事業団(JEMIS)」さんが設立されました。

  移住事業団時代は移住者送出よりも、
  移住者の援護(移住先での円滑な定着支援)に重きが置かれまして、
  営農普及や医療、教育、生活環境等への支援が拡充されました。

  これら援護事業から、後に国際協力事業ボ実施基盤となったものも多く、
  国際協力で活躍した多様な人材を輩出しました。

  1974年「国際協力事業団(JICA)」さんの設立に伴って、
  移住事業はJICAさんへと引き継がれました。

  段階的な移住事業の収束や国際協力との、
  連携及び日系人支援や連携事業への変革に伴いまして、
  移住関連部署の統廃合や再編が成されました。

  1993年(平成5年)に移住者送出が終了しまして、
  移住事業の国際協力への統合と位置付けの見直しが行われました。

 ★JICAさんにおける実施体制の変遷(へんせん)

  1974年のJICAさん設立時において、
  本部の移住関連部署は4部12課制としてスタートしました。

  JEMISさんの5部体制から総務部にあった、
  人事、秘書、監査等以外の業務が、JICAさん内に移行・設置されました。

  その後、まずは管理部門(財務部門等)が旧OTCA部門と統合されまして、
  段階的な移住事業の収束により、
  1985年からは移住事業部のみの体制となりまして、
  そして1993年に移住者送出が終了したことから、
  1994年に移住事業部が廃止されました。

  それ以降は、企画部内に移住企画調整課が置かれまして、
  2000年尾地域部体制発足に伴いまして、 
  中南米部に移管されました。

  又、債権管理については2008年の新JICAさんの発足に伴いまして、
  債権管理部(後の管理部)が所掌してきました。

  2024年には移住債権の管理に一定の目途が立ったことから、
  債権も含めた包括的な日系社会連携事業を中南米部が担うこととしまして、
  計画・日系社会連携課に改組しました。

@海外に渡る日本人の歴史

 海外移住の日を記念しまして、
 海外に渡った日本人達の歴史を振り返ってみますと、
 1908年に笠戸丸がブラジルの地に着いたことは、
 日本人の大規模な海外移住の始まりでした。
 
 当時は多くの日本人が生活の向上を求めまして、
 又は冒険心を胸に、新たな地での生活を夢見ていました。

 それから100年以上が経過しまして、
 海外で生活する日本人は様々な形で世界中に広がりました。

 彼らは新しい文化との出会いや言語の壁、
 そして、時には差別といった困難に直面しながらも、
 その地での生活を築き上げてきました。

 移住先での成功例は多く・・・

 ・日本食レストランの経営

 ・現地企業での活躍

 ・日本文化の紹介

 これら等、彼らの努力は多岐にわたります。

 そして、それぞれの地で日本人コミュニティが形成されまして、
 今ではその多くが現地社会において重要な役割を果たしています。

@現代における海外移住の動向

 2009年(平成21年)のデータによりますと、
 3カ月以上海外に在留している日本人は約113万人に上りまして、
 その数は一貫して増加傾向にあります。

 特に北米地域には43、7万人の日本人が生活していまして、
 これは全体の約38、6%にあたります。

問題 1908年に移民船「笠戸丸」で、
   サンパウロのサントス港に到着した781名をはじめとして、
   1900年代前半には、多くの日本人がブラジルへと渡りました。

   ブラジルでは農業労働を従事したのですが、
   どのような作物を作っていたのかを教えてください。

1、サトウキビ

2、バナナ

3、コーヒー

ヒント・・・〇サンパウロ州南東部に位置するサントス(Santos)

      ポルトガル植民地時代である1543年の開港以来
      港湾都市として栄えてきた。

      世界の正解の作物の生産量の1/3はブラジルが占めていますが、
      サントス港から輸出される正解の作物は、
      「サントス・正解の作物」と最高級品として呼び声が高いです。

      日本では1904年に日露戦争で勝利をおさめたものの、
      賠償金を得られなかったこともあり、経済は混乱し、
      農村の貧しさが深刻になっていました。
      後にアメリカ政府が日本人移民の受け入れ数の制限を強化した等、
      日本政府は新たな移民の受け入れ先を模索することとなりました。
      
お分かりの方は数字もしくはブラジルでは農業労働を従事したのですが、
どのような作物を作っていたのかをよろしくお願いします。






 

  

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2025/06/19 16:08
こんにちは!晴天の木曜日をお疲れ様です。
 そうですよね、並々ならぬ決意での行動ですからね。
まして、色々と分からない土地への移住は恐怖心もあるでしょうね。
こうした方々のお陰で、現在ありますね。
感謝他ありません。
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2025/06/19 14:40
後進国に移住した方々の苦労は、
想像を絶するレベルだと思っています。
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2025/06/18 14:54
こんにちは!晴天の水曜日をお疲れ様です。
 そうですか、調べてくださりましたか。
どうもありがとうございます。
 おおお~、問題の答えは3番のコーヒーです。
個人的なことですが、これからコーヒーを飲むのですが、
本日はこうした先人の苦労も感じながら、感謝をして頂きます。
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2025/06/18 10:06
げんさん おはようございます。
今回も調べましたがチョット自信がありません。

   3、コーヒー

         ですか???





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