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沖縄慰霊の日


こんばんは!23日(月)、

関東では次第に雲が広がり、午後を中心に所々で雨や雷雨となりそうです。
北海道や南西諸島は概ね晴れますが、
南西諸島では所によりにわか雨があるでしょう。
その他の地域は曇りや雨となり、雷を伴った激しい雨の降る所もある見込みです。


【家族への感謝の気持ちに付いて】

A、「感謝」の花言葉を持つお花をプレゼントです。

〇「感謝」の花言葉を持つ花

@カーネーション(ピンク色)

 カーネーションには深い歴史があり、様々な色や形があります。

 カーネーションはナデシコ科の花で、毎年花を咲かせる多年草の植物です。
 
 原産地は地中海沿岸の地域です。
 現在広く流通しているのは、
 多くの近縁種を掛け合わせて作られた交配種です。

 カーネーションと言う名前の語源には諸説あり、
 中でも次の2つの説が有名です。

 ①ラテン語の「Carneus(カルニス・意味:肉食の)」と、
  「Incarnation(インカーネーション・意味:肉色・肉体化)に、
  由来するという説があります。

  これは、カーネーションの原種が赤い色だった為といわれています。

 ②「Coronation(読み:コロネーション・意味:載冠式・載冠)」に、
  由来するという説があります。

  こちらはイギリスで冠を飾る際に使用される花が、
  カーネーションだったからとされています。

 多くの方から親しまれているカーネーションは実に古い歴史を持つ花で、
 古代ギリシア時代には既に人々の手によって栽培されていました。

 初めにカーネーションの改良が始まったのは、
 16世紀頃のイギリスで始まったとされています。

 それから17世紀頃にはさらに様々な色の品種の開発が進み、
 それと同時に花の形も種類も増やし、
 大輪のものから八重咲きのものまで数多く作られるようになりました。

 17世紀の中頃までに赤色、ピンク色、白色、黄色等の、
 現在では当たり前になっている、
 カーネーションの花弁の色が生まれたといわれています。

 その後・・・

 フランス、アメリカとカーネーションの改良の舞台は移り変わり、
 現在流通している品種に近いものが次々と作られていきました。
 
 カーネーションの品種改良は、
 現在でもヨーロッパを中心に盛んに行われています。

 特に1つの茎に複数の花を咲かせる「地中海系」と呼ばれる、
 品種が人気を集めています。

 地中海系品種は、お花屋さんで見かけるカーネーションの主流となっています。

 因みに・・・

 カーネーションが日本に入ってきたのは江戸時代初期頃とされていまして、
 当時の貿易相手国であったオランダから持ち込まれたと考えられています。

 そんなオランダから日本に渡ってきたカーネーションは、 
 国内でも栽培・出荷が行われています。

 現在、日本で最も多くカーネーションが栽培・出荷されているのは長野県です。
 続いて2番目が愛知県です。

 ☆迷ったら、12本の花束で贈る

  12本の花束のことを「ダズンフラワー」といいます。

  ダズンとは、ダースと同じ12を意味する言葉です。

  ダズンフラワーには、12本の花1本ずつに意味があり・・・

  ・感謝          ・誠実

  ・幸福          ・信頼
 
  ・希望          ・愛情

  ・情熱          ・真実

  ・尊敬          ・栄光

  ・努力          ・永遠

  このような意味があります。

【沖縄慰霊の日】 Okinawa Memorial Day

★6月23日は太平洋戦争末期に沖縄戦であった地上戦で、
 犠牲になった人々らを悼(いた)む日です。

<概要>

〇沖縄慰霊の日

@沖縄戦の終結と慰霊の日の由来

 1945年(昭和20年)6月23日は、
 日本史においても特に重苦しい記憶を持つ日です。
 
 太平洋戦争の最中、アメリカ軍の沖縄本島上陸から約3カ月後、
 沖縄守備隊の司令官である、牛島満(うしじまみつる)大将の自決をもって、
 沖縄線は終結を迎えました。

 この激戦により、多くの命が失われまして、
 その数は約20万人に上るといわれています。

 この日を忘れない為、そして多くの犠牲者を悼む為に、
 沖縄県は「慰霊の日」と定めました。

 1961年にはアメリカ施政下で「住民の祝祭日」として制定されまして、
 1991年には沖縄県の条例によって再び休日になり、今に至ります。

 ですが、この日をただの休日として過ごすのではなく、
 犠牲になった方々の追悼の意を新たにする日として、
 私達はその意義を深く理解しまして、胸に刻みます。

 ☆牛島満大将

  1887年(明治20年)7月31日ー1945年(昭和20年)6月23日

  1941年、太平洋戦争が勃発します。

  始めは優勢だった日本も徐々に戦局が悪化していきます。

  1944年8月10日、極度に悪化した戦況のなか、
  牛島満さんは沖縄に赴任することになります。

  この頃、アメリカは既に沖縄攻略を考えていました。

  その様子は日本も実感していまして、
  牛島満さんは沖縄の住民を戦禍に巻き込まない為、
  移動させようと考えます。

  8月22日、疎開児童と一般疎開者を乗せた輸送船「対馬丸」は、
  アメリカ潜水艦に撃沈されてしまいます。
  この時の犠牲者は1500名です。

  10月5日、アメリカ軍が正式に沖縄攻略を決断します。

  1945年3月、沖縄本島へ空襲を開始します。

  3月26日、アメリカ軍は慶良間(けらま)列島へ上陸します。

  4月1日、沖縄本島中部西海岸に上陸します。

  アメリカ軍の沖縄上陸が近いと感じていた牛島満さんは、
  「持久戦」を決意していました。

  牛島満さんは老人や女性、児童を沖縄北部に避難させる命令を出すと、
  沖縄南部に要塞を築きます。

  そして、体力を温存する為、沖縄の中部エリアを放棄しまして、
  沖縄に上陸したアメリカ軍に反撃する機会を待ちます。

  アメリカ軍上陸から1週間後、日本軍が猛反撃を開始します。

  今までとは比べ物にならない程の充実した火器と要塞は、
  アメリカ軍足止めに成功します。

  5月4日、牛島満さんの作戦は消極的であると批判されまして、
  沖縄島の飛行場を奪回するように圧力がかかります。

  これを受け、牛島満さんは総攻撃を許可しますが失敗に終わりまして、
  兵力の大半を失います。
 
  司令部は首里を放棄して南部に移りまして、
  6月18日、牛島満さんは第10方面軍司令官に最後の内電を行いまして、
  沖縄での組織的な戦闘が集結します。
  
  6月20日に大本営は牛島満さんの戦死を認定します。
  
問題 洞窟で生存していた牛島満さんは6月23日に、
   辞世の句を2首詠みまして、腹を搔き切り亡くなりました。

   魂になっても国を護りたいと願った牛島満さんは、
   死後、日本陸軍大将となりましたが、
   牛島満大将が最後に詠んだ2首の〇に入る言葉を教えてください。

   矢弾付き 天地染めて 散るとても 魂還り魂還りつつ 皇〇譲らん

   秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇〇の春に 甦らなむ

1、国

2、県

3、帝

ヒント・・・〇与那国島

      八重山列島の島で日本の最西端の島で〇境の島と呼ばれています。

お分かりの方は数字もしくは〇に入る言葉をよろしくお願いします。









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