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四択の答え&今日は何の日@5/28



今日は「花火の日」です。



「花火の日(日本)」(ウィキより)
1733年(享保18年/江戸時代/天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗)のこの日(旧暦)、隅田川で水神祭りの川開きが行われ、慰霊を兼ねた花火が打ち上げられたことを記念。


「隅田川(すみだがわ)」
東京都北区の新岩淵水門で荒川から分岐し、東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川である。途中で新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川と合流する。古くは墨田川、角田川とも書いた。
当川の河道は、元は旧入間川が東京湾へ注ぐ下流部だったが、江戸時代には瀬替えの結果、荒川の本流が流れた。昭和時代に荒川の分流となり、隅田川が正式名となった。

「隅田川の歴史」
古代には、隅田川は、旧利根川と旧入間川が現在の足立区千住曙町付近で合流し南流して東京湾へ注ぐ河道を指した。合流点の東岸を隅田(墨田)と呼んだ。2km下った墨田区向島5丁目北端付近から下流は河口の分流地帯だったが、そこからは浅草方向へ向かう現在の河道から離れ横十間川の方向へ2km流れ東京湾へ注いだ。ただしこの河道は次第に土砂の堆積で河勢が弱まった。この隅田川は下総国と武蔵国の当初の国境であった。南北2kmの合流区間は両国を繋ぐ接点として重要で、771年以降東海道が通り隅田川を渡船で隅田へ渡った。835年(承和2年)の太政官符に「住田河」として記されており、「宮戸川」などとも呼称されていた。
江戸時代に入ると、吾妻橋周辺より下流は大川(おおかわ)とも呼ばれた。1629年(寛永6年)に荒川を入間川に付け替える瀬替えにより隅田川の河道は荒川の本流となった。またこの頃には現在の河口への河道へほぼ一本化され、江戸の舟運に重要となった。横十間川の方向へ向かう流れへの分岐には堤が築かれた。
明治末期から昭和初期にかけて、洪水を防ぐために岩淵水門から河口までの荒川放水路が開削され、1965年3月24日に出された政令によって荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より下流の以前からの河道は「隅田川」に改称された。

「打上花火(打揚花火)」
火薬を球状に成形した「星」を詰めた紙製の球体「玉」(煙火玉)を打ち上げる花火である。上方を向いた円筒の底に発射薬を敷きその上に玉を置き打ち上げに備える。打ち上げは「投げ込み」と呼ぶ火種を円筒上方の射出口から投げ入れて発射薬に点火する。打ち上げと同時に玉から出ている導火線に引火し、玉は所定の高さまで上昇しながら導火線が燃え玉内部の割火薬に到達し玉が破裂し星に引火・飛散する。玉の大きさ(花火の高さ)によって発射薬の量と導火線の長さが調整・選定される。玉の破裂後、星には光の尾を引きながら燃焼するもの、落下途中で破裂するもの、色が変化するものなど様々なタイプがある。玉の内部に星を均一に詰めることが重要であるが、詳細な技術は花火師の秘伝とされる。

「煙火玉(花火玉)」
打上花火の主流は、打ち揚げ時に光が同心円状に広がるものが多く、玉そのものの形も球形をしている。これに対し、初期の花火は打ち揚げても円状にはならず、花火そのものの形も円筒形のものが多かった。円筒形の花火は、球形に比べ、火薬量などを増やすことができ、華やかな光や色を出すことが可能であるが、破裂途中で色の変化をさせることは困難だとされる。かつて、日本の花火も同心円状に広がるものの製造は困難で、一部の武家花火師のみの秘伝とされていたといわれるが、明治期に鍵屋十二代目弥兵衛が技術を取得し、以後、円形の花火が多く作られるようになったとされる。
伝統的に打上花火の「玉」の大きさは寸、尺であらわされる。直径約6.06cmの二寸玉(2号玉)から直径約60.6cmの二尺玉(20号玉)、さらに三尺玉(30号玉)、四尺玉(40号玉)まである。二尺玉は直径約500m程度、世界最大といわれている四尺玉は直径約800m程度まで広がる。ただし、この号数表記は打ち揚げ筒(内側)の太さであって、実際の花火玉の直径はこれよりも若干小さくなる。具体的には、20号玉の直径は60cmではなく約57cmである。



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