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おさかな日記


ラカン概説(後編)

 (1)対象aと性関係


 欲望が満たされた状態のことを、享楽という。去勢された人は、享楽を求めて、何かを欲しがる。つまり、享楽を求めるから、欲望が生まれる。欲望の原因のことを、対象a、若しくは小文字の他者という。ちなみに、ラカンはフランス人だから、「対象a」は、英語読みで「たいしょうエー」と読まずに、フランス語読みで「たいしょうアー」と読む。去勢された人でも、対象aを使うことによって現実界に少し触れられる。対象aを使って現実界に触れることを、分離という。

 欲求と欲望は異なる。欲求は満たされるものだけど、欲望は満たされないものだ。欲望は満たされないものだから、人は、享楽を体験できない。人は、享楽を体験したら死ぬ。だから、享楽は身を滅ぼすような楽しみだと言える。つまり、享楽はラカンが死の欲動を定義し直したものだ。ラカンは、欲望は他者の欲望だと言った。この「他者」には、「法」という意味と「他の人」という意味がある。

 ラカンは、性関係は存在しないと言った。確かに、恋人といちゃいちゃするリア充はいるけど、ラカンが言う「性関係」という言葉は、「恋人と何かをすること」という意味じゃない。男性は、女性を愛する時、女性の主体を愛しているんじゃなくて、女性に初恋の人の面影を見出しているだけだ。この初恋の人の面影は、対象aである。一方、女性も男性を愛する時、男性の主体を愛しているんじゃなくて、男性のファルスを欲しがっているだけだ。つまり、男女は永遠にすれ違う。ラカンが言う「性関係」という言葉は、「恋人の主体を愛すること」という意味である。でも、どうか愛されないことを悲しまないでほしい。それは仕方のないことだ。

 (2)神経症・倒錯・精神病

 ラカニアンは、人の精神状態を神経症・倒錯・精神病の3種類に分類する。精神分析では、精神的に健康な状態はなくて、あるのは、状態の差異だけだと考える。一般的に精神的に健康と見なされる人は、精神分析では、神経症者として扱う。精神分析における神経症者とは、倒錯者でも精神病者でもない人という意味である。

 神経症者とは、父の名を受け入れた人のことだ。倒錯者とは、父の名を否認した人のことだ。精神病者とは、父の名を排除した人のことだ。神経症者と倒錯者は、正常に言葉を話せる。言葉を話せるということは、象徴界が機能しているということだ。だから、神経症者と倒錯者は、父の名に去勢されたと言える。

 神経症には、不安障害、強迫性障害、解離性障害、転換性障害やうつ病などが含まれる。嫌なことが起こると、自我は、無意識に防衛機制を働かせる。神経症は、防衛機制の一種である。だから、神経症は無意識が働くことによって起こると言える。

 倒錯者は、父の名を否認した。つまり、父の名に去勢されたのに、去勢されたことを認めなかった。神経症者は、ひとが欲しがっているものを欲しがる。ところが、倒錯者はひとが欲しがっていないものを欲しがる。例えば、殆どの人は、動物に対して興奮しないのに、ズーフィリアの人は、動物に対して興奮する。神経症者は、他者が決めたものを欲しがるのに対して、倒錯者は、他者が決めた欲しいものを無視して、自分が本当に欲しいもの、つまり、対象aを欲しがる。他者とは、父の名のことだ。だから、倒錯者は、父の名を認めなかったと言える。

 「精神病」という言葉は、統合失調症、妄想性障害や双極性障害などを指す。統合失調症の症状の中に、連合弛緩(しかん)というものがある。連合弛緩とは、関連のない言葉を関連づけて話すことだ。チョムスキーという言語学者が、文法的に正しいのに、意味が分からない文の例として「緑の無色の考えが猛烈に寝る」という文を挙げたけど、連合弛緩とは、このような意味が分からないことを言うことだ。つまり、統合失調症の患者の中には、言葉を正常に話せない人がいる。言葉を話せないということは、象徴界が機能していないということだ。だから、精神病者は父の名を排除して、父の名に去勢させなかったと言える。精神病者は、現実界に触れられる。

 (3)自閉症の精神分析

 統合失調症の症状の中に、自閉というものがある。自閉とは、ひとと交流しないことだ。自閉症スペクトラム障害、略してASDをもつ人は、ひとと交流しないことが多い。この点で、ASDは統合失調症に似ている。

 ASDの症状の中に、エコラリアというものがある。エコラリアとは、聞いた言葉をそのまま言うことだ。つまり、ASDをもつ人の中には、定型発達者とシニフィアンの扱い方が異なる人がいる。定型発達者と自閉症者でシニフィアンの扱い方が異なるということは、定型発達者と自閉症者で象徴界の構造が異なるということだ。自閉症は、象徴界に異常があるという点でも、統合失調症に似ている。

 自閉症を発見したカナーという精神科医は、自閉症は子供の頃に統合失調症を発症したものだと考えた。ラカンも、自閉症は精神病の一種だと考えた。

 だけど、その後研究が進んで、自閉症は、統合失調症と関係ないことが分かった。ASDをもつ人は、ひとの言葉をまねる。一方、統合失調症の患者は、言葉を創る。自閉症者は、精神病者と言葉に関する症状が異なるから、精神病者とも象徴界の構造が異なるはずだ。

 (4)普通の精神病と普通の倒錯

 精神分析療法では、無意識を使って精神疾患を治すから、神経症は治せるけど、精神病は治せない。だから、精神分析を行う前に、患者のもつ精神疾患が神経症か精神病か鑑別する必要がある。

 ところが、1980年代になると、精神病のような症状のある神経症をもつ患者が増えた。この精神病のような症状のある神経症のことを、境界例、若しくはボーダーラインという。境界例には、境界性パーソナリティ障害や統合失調型パーソナリティ障害などが含まれる。

 ラカニアン達は、「神経症・倒錯・精神病」という分類を改める必要に迫られた。ラカンの娘の婿であるジャック=アラン・ミレールという精神分析家は、境界例を「普通の精神病」と名づけた。

 ジャン=ピエール・ルブランという精神分析家は、普通の精神病に対して、「普通の倒錯」という概念を提唱した。普通の倒錯者とは、父の名を回避した人のことだ。倒錯者と普通の倒錯者の違いは、倒錯者は、父の名を認めなかったけど、普通の倒錯者は、父の名から逃げたという点である。

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2024/01/28 16:57
シーニュさん
 読んで下さりありがとうございます。この文章を書いたのは少し前のことなので、今になってはなぜ自分がこんなにもラカンに興味をもっていたのか忘れましたが、自分と他人の心理にどのような違いがあるのか気になっていたからかもしれません。気が向いたらまた勉強したことを書きます。
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2024/01/27 22:52
はじめまして。日記広場からお邪魔しました。
ソシュール言語学に関心があるので、前編・後編と興味深く読ませていただきました。
思想を体系的に理解するのは一般人にはなかなか困難なことではありますが、
思想家の残した言葉の断片をかじるだけでも思索や処世の糧になります。
その興味をつうじてより深く体系を辿っていけたら良いとおもっています。
よろしければまた、つばめさんの学びを日記をつうじて共有してください。



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