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哲学: 自主律尊 2

哲学: 自主律尊 2
http://tetugaku.blog.so-net.ne.jp/2011-10-06 #哲学
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自主律尊 2
  

 で、自主律尊というものは、とどのつまり、自分も他者も平等なんだよ。
というものが根底にないとダメダメになる。

 だって、どんな、「正しさ」でも、それが論理である限り、なんらかの、一定の視点や立場、一定の基準が存在しないとなりたたないんだもの。
 それを変えればいくらでも変化するけど、そんなものは、論理じゃない。
 論理というのは、思考の形式とか法則のこと。
 法則というのは、なんらかの、一定の条件のもとで、必ず成立する事物相互の関係のことだし、形式というのは、なんらかの、一定の手続きや方法・様式なのさ。
 だから、とうぜん、一定の視点や立場、一定の基準が存在するはずなのさ。
 それをしないのは、論理でも法則でもなんでもない。
 もちろん、それが悪いわけじゃない。

 で、このとき、どうしてもでてくる問題は、視点、立場、基準というものは、案外、人の数だけあるものだというのが、厄介だ。
 もし、自分の視点、立場、基準のみが正しいとしても、他人がいや、自分の視点、立場、基準のみが正しいのだ。
 ってことになる。
 これは、矛盾だよね。

 そうなると、誰にでも共通する、視点、立場、基準を設けるのはどうかってことが、ポイントになりそうだ。
 だけどね、そんなものは、成立するはずも無い。
 だって、人の数だけ視点、立場、基準があるんだから、絶対、例外というものが出てくるのさ。
 嘘だと思えば試してみればいい。
 絶対、矛盾が生じる。
 
 で、誰にでも共通する、視点、立場、基準を設けることはできない。

 ということはわかった。

 じゃぁ、自分の他者も平等だというのはどういったことなのかと言いうと、それほど難しいことではない。
 そんなばかな。
 と思う人もいるかもしれない。
 だけど、それは、結果の平等を求めたときであって、そうじゃなくて、平等な権利なら、至極簡単。
 単純な決め事の問題。
 決めるまでもめるかもしれないけれども、もめる理由は各自が、それぞれ自分の立場を自己主張しているにしているだけなんだよね。
 それは、時代遅れな考え方。
 何にも、良くならない。お互い損をするだけ。
 いっそ、自己主張を保留して、みんなにとって一番イイ方法を考えればいい。
 自己犠牲とか損得なんてキニシナイで、みんなハッピーになれる方法を。
 みんな欲張らなければ、少しのハッピーでみんながハッピーになるって寸法さ。


 なんかワクワクしてこない?






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