Nicotto Town


安寿の仮初めブログ


平原の国ポーランド、その中心のワルシャワ


ワルシャワでは夜9時に夕日が差しています。

ポーランドは観光としては正直言って地味な国です。
ですが、ポーランドは私にとっては是非とも訪れる必要のある国でした。

この国ほど、近現代の歴史の中で、
列強の覇権によって踏みにじられてきた国はないからです。

プロイセン・オーストリア・ロシアによるポーランド分割によって、
ポーランドが消滅し、
第1次世界大戦の後、ポーランドが復活するも、
グダンスク(ドイツ名ダンチヒ)は
90%以上がドイツ系住民であったにもかかわらず自由都市とされたために、
分断されたドイツ領土を取り戻すという名目で、
ナチス・ドイツがポーランドに奇襲をかけたのが、
第2次世界大戦の開始でした。

アウシュビッツ強制収容所がポーランドにあるのも、
そこは最初、ポーランドの政治犯・思想犯(と、ナチスドイツが決めつけただけですが)
を収容するために設立されたからです。

そして、第2次世界大戦後は、
西側のNATOに対抗して、ワルシャワ条約が結ばれた街でもありました。
冷戦は、ポツダム郊外のチェチーリエン・ホーフで始まり、
ワルシャワ条約機構軍が成立した段階で決定的になったと言えるでしょう。

そんなワルシャワですが、
当時の面影を残すのは、ワルシャワ中央駅の隣に、
ドデンと聳えるスターリン様式の文化科学宮殿のみ。

ここでポーランドの社会主義人民大会が行われていたのですが、
今はワルシャワの街並み全体を眺める展望台の役割を果たしています。

今日は、まず、ワルシャワの南側にあるワジェンキ公園へ。
ここはガイドブックによるとヨーロッパで最も美しい公園の一つだそうです。

確かに緑が深く、池の側には瀟洒な宮殿や野外劇場が立ち、
クジャクが闊歩しています。

ここはショパンの像があって、週末には野外ピアノコンサートがあるようです。

そう、ワルシャワはショパンの街といってもいいでしょう。
とはいえ、ショパンとは縁もゆかりもない安寿なのですが、
でも、街のところどころに置いてあるショパンのベンチに腰掛けて、
PLAYのボタンを押すと、
ベンチからショパンの名曲が流れてきます。

聞けば、「ああ~、この曲知っている」と思うのでした。

ですから、昨日は真っ先にショパン博物館を来訪。
ショパンのファンの方、この街は訪れる価値があります。
昨日は、ショパン博物館の後、ショパンの心臓が埋め込まれている
聖十字架教会の柱を撫で、
ショパンがワルシャワ時代に暮らしていた場所や、
学んだ学校(ワルシャワ大学の中にある)
そして、オルガンを弾いていた教会なども訪ねました。

チェコにおいて民族学派の音楽家は、スメタナとドボルザーク。
それに対してポーランドにおいては、ショパンがそこに位置します。
ショパンはポーランドを愛していたのですが、
ポーランドを離れた後、ポーランドに戻ることができなかったのです。

ですから、死後、せめて私の心臓だけでも…  ぶきみ  ☆\(ーーメ)

話を元にもどします。

ワジェンキ公園のショパンの像を眺めた後、
公園内にあるワジェンキ宮殿を見学。
なぜか見学料無料だったのは、現在改装工事中で、
いくつかの部屋は見学できなかったからでした。

この公園は、観光客の団体だけでなく、
小学生が見学に来てたり、
美術学生が風景画の実習をしていたりと、
庭園内に自然だけでなく、文化の香りがします。

ワジェンキ公園を見学後、
近くのトラムの駅からワルシャワの旧市街近くに戻って、
旧王宮を見学しました。

かつての王宮の中を見学して廻るわけですが、
しかし、この王宮は第2次世界大戦の際、
完膚なきまでに破壊された宮殿なのです。

ナチス・ドイツの支配に抵抗して、
1944年、ワルシャワ蜂起が起こるのですが、
この蜂起は失敗し、
ナチス・ドイツ軍はワルシャワの街を破壊し尽くすのです。

この辺の場景は、
ロマン・ポランスキー監督『戦場のピアニスト』や
アンジェイ・ワイダ監督『地下水道』に
詳しく描かれていますので、ご覧下さい。

ですが、この王宮を復元しようと、
社会主義時代にも関わらず、
市民の寄付によって王宮再建の募金が始まり、
この王宮が復活したのでした。

この王宮を含めて、
ワルシャワ旧市街全体が世界歴史遺産に指定されているのですが、
しかし、それは戦後になってすべて復元したものなのです。

ですから、私にとっては復元された王宮の各部屋も興味深かったですが、
しかし、一番感慨深かったのは、
地下に設置されている王宮の歴史と破壊、そして再建を、
映像によって紹介する展示。

王宮見学を終えた後、多くの小学生たちがここで映像を見て、
王宮の歴史と、ナチスドイツによる空爆、
その後の徹底的な破壊(ワルシャワ蜂起への報復でした)、
そしてその再建の歩みを見ていくことになります。

さて、その後、旧市街広場に出て、
ワルシャワ歴史博物館を見学しようと思いましたが、
ショップと歴史映画だけの上映だけで、
他は現在閉まっているとのこと。
どうも改装中のようです。

なので、旧市街の脇道などを探検し、
ワルシャワ名物のピエロギを食べて(洋風水餃子と思えば、当たらずとも遠からず)、
ワルシャワ中央駅の横に立つ文化科学宮殿へ。

先ほども述べたように、
この建物は旧ソビエトがポーランドに贈った
スターリン様式と言われる、
バカでかくて厳めしくて繊細さのかけらもない、
社会主義政党指導部の権威を
ポーランド人に印象づけるために作ったような建物ですが。
この塔の上に登ると、
ワルシャワの街並みが見渡せるので登ってみることに。

ポーランドの国名の語源は、「平原の民」という意味らしいですが、
なるほど真っ平ら。

クラクフからワルシャワまで列車で移動した時も、
延々北海道の丘陵地帯を旅しているような感じで、
トンネルは一箇所しか潜りませんでした。
 (一箇所だけだから覚えていられた)

あああ~、平原の国の上を白い雲が渡っていく…

東はモスクワ、南はクラクフ、西はベルリン

そして、明日は北のグダンスクへ向かいます。

グダンスクは、ポーランドが社会主義であった時代、
労働者の自由を求めて、自主管理労組「連帯」が生まれた街。

ここから社会主義体制下における
ポーランドの民主化は始まったと言ってもいいでしょう。


最後に報告しておかなくてはいけないこととして、
ポーランドのお酒。
それはやはりズブロッカ。
ウオッカです。

昨日、小瓶を買って飲んでみましたが、
これ、はっきり言って薬用アルコールですよ。
そのまま生で飲んだら、
私なら死んでしまいます。
(ポーランド人はそうして飲むらしいけど)

水割りにしてもあまり美味しくありません。

なので、今日はスーパーからトマトジュースを買ってきて、
即席ブラッディ・マリーにして…

いや~、いけますね~  ☆\(ーーメ)

…と日記を書いていたら、
ようやく10時になり、窓の外も暗くなりました。

ということで、今日はこれで寝ます。
明日はグダンスクへ行きます。




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2014/07/15 22:33
>桜ノ草さん

返事が遅くなりました。
ごめんなさい。

なるほど~、そうでしたか。

グダンスクで自主管理労組「連帯」が
ポーランド政府によって非合法化された時、
ヨハネ・パウロ2世はたびたび「連帯」への支持を表明することで、
側面からポーランドの民主化運動を支援していたようです。

ですから、
ポーランド人がヨハネ・パウロ2世へ寄せる思いは、
単に「普遍」への信仰だけに留まるのではなく、
ポーランドの自由と民主化を求めて、
ポーランドを越えた「普遍」的連帯を
ヨハネ・パウロ2世が寄せ、世界に呼びかけ、
築き上げてくれた点にもあります。

それでは、Dobranoc.(ドブラノッツ/おやすみなさい)。
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2014/07/13 17:07
安寿さん

惜しい!

日本人の親のほうも、元々カトリックだったので
ポーランドの流れと日本の流れから
カトリックを知っているわけです。

といっても、カトリックは別にポーランドの「文化」なわけではなく、
遠藤周作のように「日本人のキリスト教」という話をしたがる人もいますが、
  カトリック=普遍  なので、
日本人であろうとポーランド人であろうと
カトリックはカトリックでしかないのです。
『教会』は一つ。

安寿さんの記事を読んでいると
ポーランド語を勉強してポーランドに住みたくなりますわ。
ジン・ドブリ! しか知りません(笑)

ヨハネ・パウロ2世は大人気ですよねぇ。
89年までポーランドは共産主義体制におかれていましたが、
貧しいカトリック農民は宗教的にも経済的にも
ずいぶん苦しい思いをしていたようです。
そんな中、ポーランド人の教皇がいるということが
心の支えだったのかもしれません。
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2014/07/12 22:20
>桜ノ草さん

そうかあ~

勝手な想像ですけど、
桜ノ草さんのお父さんは、ポーランド人なんですね。

だから、ポーランドに親戚がいるし、
カソリックを信仰しているんですね。
幼少の時、アウシュビッツ強制収容所を見学していたのも、
それがきっかけだったんですね。


ポーランドでは日曜日のミサだけでなく、
毎日夕方6時からミサが行われていました。
そして実際、かなり多くの方がミサに参列していました。

ドイツの福音ルーテル派の教会なんて、
信仰の点から言えば、日曜日のミサだけの存在です。それすら危うい…  ☆\(ーーメ)

ただ、興味深いなと思ったのは、
東ドイツにおける民主化運動の拠点になるのは教会なんです。

教会は、全体主義体制下において唯一、
内面の自由を保障できる場だったからです。

ところが、自由主義体制下において教会は、
人々の自由な生き方を束縛する伝統的しがらみになってしまうんです。


そんなことはともかく、
グダンスクのある教会では、
ミサの最中、入口の方まで長い列ができていたので、
ミサの様子を見物したかった私は、
信者の信仰の邪魔にならないよう、
列の一番後ろに並んでいたら、
私の後ろにどんどん列ができていく。

なんだろうと思ったら、
この列は懺悔する順番を待つ列だったのでした。

私が懺悔したら、
1時間はおろか、
一生涯かかっても終わらないので、  ☆\(ーーメ) 何語で懺悔するつもりだったんだ?
そそくさと退席しましたが…     ☆\(ーーメ) ポーランド語勉強して悔い改めよ!

ああ~、ポーランド人のカソリックへの信心深さ。

どこの教会に行っても、
故ヨハネ・パウロ2世の彫刻や肖像画や肖像がありますし、
その出身地であるクラクフでは、
ここが彼の本来眠る地という感じの祭壇がたくさんありました。

 (彼の亡骸はサン・ピエトロ寺院に眠っているそうですが、
  彼の遺言は故郷に葬って欲しいという内容だったようです。)

続く~。
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2014/07/12 22:19
続きです。

…で、ズブロッカですが、   ☆\(ーーメ) 悔い改めておらんな!

息を止めて流し込むという
その飲み方自体がすでに薬用アルコールです。

アウシュビッツ強制収容所を訪問した時は、
もうずぶ濡れになるほどの大雨だったのですが、
ガイドしてくれた方に、
 「当然、こんな雨でも、
  収容された人々は傘もささずに、
  労働現場へと向かったわけですよね。」
と質問したら、
 「でも、今は夏の雨だからまだましで、
  冬なら零下20度の吹雪の中でも、
  労働現場へと向かわなければならなかったのです。
  アウシュビッツ強制収容所のすぐ近くにある
  ビルケナウ強制収容所は水はけが悪い土地なので、
  大雨になると、
  膝まで水に浸かる中を歩かなければなりませんでした。」

アウシュビッツからクラクフに帰った後、
宿の熱いシャワーを浴び、
服を着替えた後、
近くのレストランで、
ピエロギやジューレックを注文し、
生ビールを頼んでいる私なんて…

 …もう、罰当たりものです…   ☆\(ーーメ) さっさと罰当たれ!

ともかくポーランドの旅は、
クラクフといい、ワルシャワといい、グダンスクといい、
単に観光地巡りというだけでなく、
現代史の核心部分を訪れた感じがしました。

 …その核心部分とは何か…

それは、国民国家というヴィジョンの魅惑的な幻想とその限界です。

安寿は、それを越えていきたいと思っています。


  うわ~、また長くなっている  ☆\(ーーメ) いつものことじゃ
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2014/07/11 21:24
ズブロッカは、
息を吐いて止めて、少量を口に含み、
息を止めたままグイッと飲み込む。
そしてゆっくり呼吸。

飲み込んだ後に
カーッとくる。
その風味がおいしい。

死なないから、やってみて^^

ポーランド人の親戚からそう飲むように教わりました。



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