かなりや
- 2025/12/29 08:26:27
「な、ここに1音あるとするだろう? そこにもう1音足して2音になる。それでハーモニーが出来る。」
彼は真剣に、そして凛としてピアノの前で語り始めた。
「でも、音の高さで響きが変わるんだ。良い響き、不自然な響き、いろいろある。でもずーっと離れると
1オクターブ離れて同じ【C】になる。それは高い方の【C】だ。2音があってそこにもう1音
加えると‥和音になる。別でもう1音足すと派生した亜型になるんだ。」
「へえー」
私はよく分からなかったが、語りながら押さえられた鍵盤から響き渡る音色に感心しつつ返事した。
「でも、コードなんて後付けの理屈なんだ。本当は耳に聞こえる音が無数にある。その中でどの音と紡いで
旋律を作っていくか?それは作曲者が無限の海から、自分のイメージを導きだし、表わしていくプロセス
なんだ、だから作曲者は書き出す前に頭の中で音を組み合わせて奏でてるんだよ。‥感じながらね?」
嬉々として語る彼の目は、クリスマスのご馳走を前にした子供のそれだった。
彼は音楽学校には通っていない。ピアノのあるような家庭でもなかった。中学時代は音楽室のカギを無理言って
先生に渡してもらい、お昼休み、ひとりで白黒鍵盤を前にして悪戦苦闘しているような人間だった。
彼の厳格な家庭は彼に勉強と礼儀は強いたが、音楽の様な享楽は忌むべきものとして遠ざけるばかりだった。
「長調は明るい感じ、短調は悲しい感じ、あと、どちらでもない調もある。これらが時間と共に
転調しながら繋がるんだ。移ろいながらね?その飛ばし方がモーツァルトは上手い。バッハは分解コード的
だけど構築が神だ!移行はコードでもいいし、でも単音のほうが妙が生きる。童謡なんて実は神だよ♪」
言ってる事が私にはさっぱり追いつけなかったが、楽しそうに語る彼を見ていて嬉しく思ったものだった。
私の記念日には、即興で自由にピアノを弾いてみせてくれた。もとより小さい頃から訓練と教育を受けた
子たちにはかなわないが、素人な私が聴いても、これがきっと「才能」と言うモノだろう。と確信するに
十分な美しさだった。
彼は一途すぎた。
彼が自分の青春を全て注ぎ込んだのは技術的な音楽では無かった。創造的な音楽だ。例えて言うと
フィギアスケートという種目がある。そこには技術点と芸術点とがあり、総合的に判断される。
そこで言うなら、彼は芸術点のみに自分のすべてを集中し注ぎ込んだ。
「音楽とはすばらしさを伝え表現するものだ」
彼の純粋さの悲しさだろう。彼にとって音楽は【感動】そのものだった。
当然彼は既存の音楽コンクールには適応しなかった。また、そこの受賞システムは若い彼の思い及ぶ論理では
営まれてなかった。つまり‥コネも後ろ盾も経歴も無く、乗り越えられる世界ではなかった。
自分の時間を惜しみなく全て注ぎ込んでも、彼の行く場所はどこにもなかった。
私は彼がいつか打ひしがれる時が来るのを薄々予感していた。けれど、やめろ。諦めろ。とは‥
とても言えなかった。私は彼の傍でずっと見て来た。つき合い始めたのは13歳の頃だ。
幼い私たちは、無邪気に夢を見る日々を過ごしてきたが、やがて年齢という現実が重たい壁となって目の前に
せり出してくるのを感じずには済まされなかった。
彼は私が働いてサポートする、という提案を受け入れるようなタイプでは無かった。
彼の気持ちは‥痛いほどわかった‥。
ある日、彼は私に言った。
「オレ、もうやめるよ‥こういうの。」
「え?」
「10年やったんだ。もう無理‥てか、続けても見込みあるか分かんないだろ?」
「‥」
「悪りい‥オレ、資格試験、勉強して受験してみる。…で、ちゃんと就職して働く。」
「‥」
「‥それまでプーのままだけどさ、待っててくれるか?」
わたしは思わず彼を抱きしめた。彼の髪を、痩せた体を、ギュッと胸に押し当てた。
彼は泣いていた。恥ずかしげもなく、憚ることなく、嗚咽しながら、大声で泣いていた‥。
熱い涙のぬくもりが、わたしの胸に伝わって来た。
「それが‥いちばん、‥いい方法、だよな。」
とぎれとぎれに語られるその言葉が、どれほどの無念と苦痛を押し殺して絞り出されているか。
それを思うとわたしはたまらなかった。彼の才能も苦悩も、わたしは全部見て来た。全部知ってる。
誰よりも、本当に誰よりも、彼の「才」を私は認めている。彼の創り出した素晴らしい楽曲の数々を!
そうだ、これはもう全部わたしのものにしてあげる。誰にもあげない、わたしだけのものに!
‥これであなたはもう‥
すべてわたしのものだから!



























