激戦ニューギニア。
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- 2010/05/13 19:39:41
時は昭和18年、場所は常夏の密林、ニューギニア。
ここに1個小隊約25名の砲兵隊が駐屯していました。
守るは日本軍。攻めるはアメリカ軍。
密林に覆われていて、空爆による効果は見込まれませんでした。
アメリカ軍は陸路、侵攻してきます。
守る日本軍は海軍陸戦隊、常用の高角砲127mmを水平射撃で
これを阻止しにかかります。侵攻してくるアメリカ軍は当初1個中隊
だったのが、どんどん膨れ上がり1カ月余りで1個師団に。
しかし隘路な上丘を登らなければならず、まして野砲を備えても、
効果が望めない中突撃を繰り返すしかありませんでした。
日本軍は繰り返される攻撃に、榴弾砲の連射でしのぎます。
アメリカ軍は日本軍の兵力を1個大隊以上、野砲10門と観測し
機甲部隊の投入を求めましたが、熱帯雨林の中、泥だらけの地面
戦車は走れません。至近距離まで迫っての銃撃に頼るしか
ありませんでした。
1ヶ月が経ち、2ヶ月が経過、アメリカ軍は兵力の3割を失い
野砲も7割を失うに至りました。
そして最後の決戦として野砲の一斉射撃と歩兵の突撃が敢行
されました。
そしてついに日本守備隊は敗れました。陣地が占領されました。
しかし、驚愕の事実はココから始まりました。
なんと日本守備隊を最後まで守り野砲の射撃をしていたのは
1人だったのです。
最後に死亡した人間も死後10日余り、そのほかの痛いも腐乱し
あるものは白骨化。時限信管はすべて0秒、つまり発射直後に
起爆するように調節されており、生き残り最後まで発砲をしていた
兵士は砲弾を抱え装填するところを銃撃されていました。
なんと10日余りの間、兵士は1人で1個師団を相手に戦って
いたのです。
日記も見つかり、当初から寡兵であった上兵士の多くは病死し、
事実上、2ヶ月の間10人にも満たない兵士によりアメリカ軍
1個師団は釘付けにされたのでした。
最後になった兵士はどんな心境で戦っていたのでしょうか。
アメリカ兵はやるせない感情を抱いたそうです。
陣地の占領は成し遂げましたが、このような不屈の戦士を相手にし
闘った彼らは一様に命令があるわけでもなく、ヘルメットを脱ぎ、
頭を垂れ、彼らの神に迎え入れらるように祈りを捧げ、死体を埋め
墓標を建てたそうです。
この陣地で戦死した日本兵は、今の日本を見たらどう思うでしょうか
私の伯父は中国で従軍していました。通信兵でした。
晩年よく言っていました。
「俺はこんな国を守るために戦ったんじゃない!!」
人を人として扱わず、機械の部品みたいに使い捨てにする社会、
中国にGNPが追い抜かれた現在、この風潮は更に厳しく
なるでしょう。
今日の夕刊で「20代、30代」の自殺者が相変わらず
増加していると記事が載っていました。
資格試験でしか人を評価せず、機械みたいにタイムテーブルで
勤怠を評価するのみの現在、いわゆるアメリカ式ですがねぇ。
人同士の横のつながり、隠れて評価のしにくい人間の特性、
そう言ったものに光が当たらない現在、勤労意欲も未来への希望も
持てと言われても無理ですよねぇ。
10年後、社会の中核となる人材が大きく削られる世になって、
慌てるのは誰でしょうねぇ。
そいつらの馬鹿面に、イバリでもかけてやりたいです、
まず、そもそも1個小隊しかいなくてアメリカ軍側との
兵力の差がはっきりしていたのになぜ負けるためのために戦うという判断しかできなかったのか。
(どこの戦場でも似たようなことが行われていたわけですが)
そうするようにどんな教育がなされていたのか。
はじめから投降して捕虜になれば助かる人はいくらかでもいたはず。
捕虜になってはいけないという教育をされていたから戦いをやめるという選択肢がなかったわけですね。
まあ、そんな細かいことより、なぜ「勝てるはずのない戦争を始めたのか」ということが問題なわけですが。
そして、「なぜもっと早く戦争をやめなかったのか」ということもありますし。
「こんな国にするために」戦ったわけではないというお気持ちを伯父様が持たれるのは当然ですが、
日本という国はそもそも偉い人ではなく普通の一般人を人としてまともに尊重されたことがない国ではないでしょうか。
若い人の自殺が増えている、というのが本当に悔しいです。
また、人にはいろいろな個性がある、という当たり前のことを考えず、みな同じように
そろえたい、という考え方の社会のおかげで苦しんでいる人がたくさんいるのですね。