Nicotto Town


メルカッツ提督苺


今日はぁ~

65年目の敗戦の日ですねぇ。

私のおやじさんの思い出話をしてみます。

私のおやじさんは旧制中学の卒業生ですが3年生の頃から
学徒動員で工場勤務をさせられたそうです。
当時は10代前半の子はみんな徴用されたそうで
昼間は高射砲の砲身を削り、夜は勉強だったそうです。
たまに宿舎を抜け出して、夜中多摩川で泳いだとか。
水着なんてものはありませんから丸裸。
川の流れに身体を持ってかれそうになったとか聞きます。

そんなこんなで昭和20年の8月15日を迎えたそうですが
その日は朝からすっきり晴れ渡り、いつもであれば戦闘機の
機銃掃射があるような晴れ渡り方だったそうです。
朝からの操業は中止になり、お昼直前に工場敷地内の空き地に
全員集められ玉音放送を聞いたそうです。

毎年8月15日は何故か晴れ渡る日が多い気がします。
何を暗示しているのかなぁ?などとちょっと考えてしまいます。

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2010/08/16 19:03
戦争で赤紙ひとつで戦場に送られた人たち…英霊と呼ばれたかったのかどうかは判りませんが、すくなくとも今の日本の状態を望んでいたのか疑問はありますね。いづれにしても物資的には先進国かもしれませんが、精神的には良い方向と反対方向に向かっているように思います。
かつて学生といえど、15歳になれば戦場に送られて、多くの学生が戦死していきました。彼らの死をムダにしないよう、戦争を二度と起こさないようにするのは我々今を生きる戦争を知らない者たちのつとめかもしれませんですねw
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2010/08/16 00:37
(*'へ'*) ・・・そうなんだぁww
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2010/08/15 18:07
そうなんですか…
亡くなられた方の想いが強いのでしょうか?
なんかすごいですね^^

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2010/08/15 18:01
実は両親とも健在ですが玉音放送というと
「何を言っているか聞き取れなかった」という話だけが
印象的なので
提督のブログをきっかけにいろいろ
細かい話を聞いてみました。
父親が高校生、母親が8才年下の10才で終戦を迎えました。
これから晩めしのしたくですので
あとでまた話を聞けるといいのですが。
提督のようにきちんと記憶しておけたらいいのですが
記録しておかないとだめですね。
できたら明日にでもブログに書いて残しておこうかな。
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2010/08/15 15:36
提督さんのお父さんは私の両親よりも10数年は年上だったんですね。
私の両親からは戦争の体験談は聞けません。(父は敗戦当時まだものごころがついてなくて記憶なし、
母は戦後生まれ)祖父が徴兵されたことがあるとはきいてますが。
どちらにしても私の両親は田舎の貧しい漁師・農家の出身なので身内も空襲には遭っていないと思います。

お父さんは疎開する年齢ではなくて東京都内(少しは都心より奥ですか?)に残っておられたのですね。
学徒動員、工場勤務という知識はありますが、じかに(間接にですが)経験談を聞いたのは初めてです。
ということは何度も空襲に遭われているのでしょうか。
食事も少なかったでしょうから厳しい工場勤務に耐える体力を維持するのが大変だったでしょうし。
よく生き残られましたね・・・・・

いろんな本を読みましたが、そういえば1945(昭和20)年8月15日の天気は晴れていたという描写が
多かったですね。
お父さんは「玉音放送」をじかに聞かれたんですね・・・
どういうお気持ちだったのでしょうか。もう空襲に遭わずにすむ、というのはあったかもしれませんね。

私はこのあたりの時代に関心を持って少なくとも子供ができるまではそれなりに本やテレビを
見ていたのですが、体験者から話を聞いたという経験はほとんどないんです。
小学校の授業で興味をもち、授業とか本、博物館など「勉強」だけで知識を増やしていました。
なので、いくら本を読みテレビの映像を見ても自分の経験として実感する、ということが
できていませんでした。
自分に子供ができてからは「死者」の数を見てもそれがどういうことかほんの少しは実感できるように
なりました。知識が少し「実」になりかけたのはごく最近のことだったんです。

自分の子供にこの時代についてどう話をしたらよいか、とも考えるのですが
わかりやすく話すのをどうすればいいかわからなくて結局まだ何もできていないです。
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2010/08/15 15:10
大変貴重なお話をありがとうございます
地域柄か、ぼくの周りには当時のこういう体験をした方は
少ないんですよね




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