Nicotto Town



又次郎と喜三郎

永禄9年(1566)1月・備前国(現在の岡山県)津高郡加茂村

・・・

ここ何日か、よく晴れて日中は寒さも幾分和らいだ日が続いていたのだが
今日は一日中どんよりとした雲が空を覆い夕刻が近づくにつれ身を切る
様な寒さだった。

山肌の落葉樹の枝々も真冬の陰鬱な空の下では一層寒々しく見える。

又次郎は家の中の囲炉裏の側に腰を降ろし、気難しい表情で何事か思案に
暮れていた。

土間では、女房のおたまが夕餉の支度をしている。

「もし、備中のつわものらあが、こっちに来ようったら村で、もの盗りやら人取りやら
乱暴しよるんじゃろう。

ぼっけえ、きょうてえ(すごく怖い)わあ」

夕餉の菜を手にしたおたまが言った。

「そげな事になったら、山の中に逃げて隠れとりゃあええんじゃが」

思案を続けていた又二郎が答えた。

数千の大軍を率いて、備中の松山城を出た三村家親(いえちか)が
北の美作に向かうのか、それとも南下してこの備前に向かって来るのか
又次郎にはわからない。

もし備前に、向かって来るとすれば、三村の軍勢がこの加茂にもやって来る
かもしれない。

数年前まで、生国の阿波から、三好の軍勢に加わって河内や摂津等、畿内の
いくさ場を転々としていた又二郎は、いくさに巻き込まれた村々の惨を極めた
有様と云うものを幾度と無く目にしてきた。


今、又二郎は三日前の出来事についてずっと思案を続けている。

「(三村)家親さえ失せりゃあ、無駄ないくさはせえでも済むし、百姓等が
酷え目に逢わされずに済むんよ」

津高郡・虎倉(こぐら)城主、伊賀久隆によって引会わされた、上道郡、亀山(沼)城
城主・宇喜多直家は言った。

又二郎が、この時に宇喜多和泉守直家から持ち掛けられた話をしばらく考えた末に
承諾した時、同席していた弟の喜三郎はひどく驚き、後になってから兄の又二郎に
詰め寄った。

「兄者、なしてこげな話を請け負うたりしたんなら?・・・なんぼなんでも危な過ぎる
じゃろうが」

喜三郎はそう言ってなじった。

「よう考えて見いや、喜三郎、今は天下の公方(足利義輝)が、臣下(三好、松永)に
攻め殺される様な時世じゃ。

こげな乱れ果てたる世にあって、わしらみてえにいつまでも浪々としとったんじゃあ
女房子供を無事に養うて行かれんじゃろうがな」

又二郎は言った。

(・・・功ならず、討ち取られ候はば、残された妻子をばよきに頼み奉る)

又二郎が出した条件を直家は受け入れた。

・・・

永禄9年1月下旬、一代で備中(岡山西部)をほぼ手中に治めた松山城主・三村家親は
数千の大軍を率いて城を出て、国境を越えて美作(岡山北部)に侵入した。

剣方喰(けんかたばみ)の旗を靡かせて、長く続く隊列を進ませて行くその威容は
沿道の人々を驚愕させ震え上がらせた。

昨年の秋まで、家親は手を結んでいた安芸の毛利元就の尼子攻めに加わって
法勝寺合戦など、伯耆(鳥取西部)方面で数々の武功を挙げて武名を轟かせている。

かつては、山陽、山陰八ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の
守護に任ぜられ、11ヶ国にその勢力を及ぼして諸勢力中、最大版図を誇った尼子氏も
今は月山富田(がっさんとだ)城を包囲され、その城も落城の秋(とき)が迫っていた。

(注・実際に月山富田城が落城したのは、永禄9年11月で、この時城主・尼子義久は
助命されている。)

「この度の紀伊守(家親)殿の伯耆表での比類無きお働き、感服の至りで御座いまする。

・・・紀伊守殿が備前・美作に馬を進めらるるに於いては、当家も出来る限りの手当てを
致しましょう」

三村家親が備中への帰国を願い出た時、出雲・宍道湖畔の洗合(あらわい)城にいた
毛利元就は言った。

・・・

国境を越え、美作国に入った三村家親の軍勢は、備前国境に近い籾村に入り
興善寺に本陣を構えた。

月が変わって2月5日、この日は、一日中寒々しい雲が空を覆い、冷たい風が
山あいの谷に広がる美作の野に吹き続けた。

日が暮れて夜に入ると冷え込みが一層厳しくなり、吹き止まない風が三村陣の
篝火を大きく揺らす。

月明かりの無い闇夜に紛れて、足軽姿に扮した二人の男が寺の裏にある竹藪の
中から、音を忍ばせて三村本陣のある境内に忍び入り、警固の隙を突いて
客殿の庭から本堂に近付いて、本堂の縁の下に身を潜めた。

又次郎、喜三郎兄弟である。

この時、本堂では戦評定が終わったばかりで、家親の前に集まった一族、重臣達が
談笑している最中だった。

「まあ、今時分は、三星の(後藤)勝基や天神山の(浦上)宗景、それに亀山の
(宇喜多)直家等は城で震え上がっとるじゃろうのう」

家親の弟で、備中・鶴首城主・三村親成(ちかしげ)が膝を叩いて言った。

「備前、作州を切り取ったら、いずれは播磨も窺える形勢になって来るじゃろう。
・・・清和源氏の流れを汲む当家は、いつまでも毛利なんぞの風下に立っとる
家柄じゃあ、ありゃあせんので」

三村一門の三村五郎兵衛がそう言って気勢をあげた。

やがて、縁の下に身を潜めていた又二郎と喜三郎の耳に、一族重臣達が立ち上がって
その足音が声高な話し声や笑い声と共に本堂から遠ざかって行くのが聞こえた。

又次郎は暗がりの中で、衣の下に隠し持っていた馬上筒を取り出した。

馬上筒とは普通の種子島(火縄銃)より丈が短い短筒の事である。

それから、又次郎は草摺(腰に付ける具足)から目立たない様にぶら提げていた
火縄を取り出してみたが、この時に縄の火が消えている事に気付いた。

「兄者、こげな時にそげな下手をしようったら、おえりゃあせんがな(駄目だろう)。
 
・・・わしが何とか才覚して来るけえ、ちぃとその縄を貸してくれいや」

喜三郎はそう言って、又次郎から火縄を受け取り縁の下から忍び出て行った。

又次郎にとって、機転の利く喜三郎がこの興善寺まで共に来てくれた事は
とても心強く、この上も無く有難かった。

喜三郎は初めの内は、この話を危ぶんでいたが、結局、生国の阿波の頃より
長年苦楽を共にして来た、兄の又次郎と運を共にする事に決めた。

やがて、付近の足軽達の焚き火に交じってこっそり火縄に火を移した喜三郎が
戻ってきた。

又次郎と喜三郎は辺りを窺いながら、縁の下から忍び出て本堂の縁に上がった。

意を決して障子の紙を濡らして穴を開け、本堂の中を覗いてみると仏壇の前に
甲冑を脱いだ三村家親が一人で座しているのが見えた。

何故か、周りに近習達の姿はその時無かった。

又次郎は馬上筒に火薬と2つ玉を籠め、火皿に口火の火薬を入れ一度火蓋を
閉じ火挟みに火縄を挟んだ。

それから、障子の穴を広げ、そこから筒の先を出して、構えて火蓋を切った。

緊張で逸る心を鎮めつつ、目当てで家親に狙いを定め、ゆっくりと引き金を引いた。

静まり返っていた本堂に轟音が鳴り響き、又次郎の目の前で家親が大きく仰け反って
後ろに倒れ込むのが見えた。

その後、又次郎は喜三郎と共に急いでその場を離れたが、走り始めて筒を
その場に置き忘れたのに気付き慌てて戻って、それを手に取って後は無我夢中で
その場から逃げた。

三村家親の死は一門の三村親成によって秘されていたが、程なく三村勢は
美作から備中へ引き上げて行った。

遠藤又二郎俊清はこの功により宇喜多直家から千石の知行を受け、浮田性を許され
浮田河内を名乗り、徳倉城主となった。
後、豊臣秀吉の天下で宇喜多秀家が五大老の一人になり57万余石を領し4500石に加増された。

遠藤喜三郎俊通も後に3000石の知行を受けた。

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2012/10/03 21:00
人間が歴史を動かすって感じがしますね。
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2012/10/02 16:55
歴史はカラキシの私ですが、楽しく読めました^^
淡々とした語り口で統一されていますが、なかなかドラマですねぇ。
面白かったです^^
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2012/10/01 22:10
 大河ドラマにでもできそうなプロットがありそうですね。
 個人的に、横溝正史氏の作品が好きなので岡山の方言が何だか楽しかったです。
 歴史的には、いろいろなお話を作ることができる時代ですね。
 男の物語だけではなく、村に残る女子どもたちのお話も書けそうです。
 楽しく拝読しました。
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2012/10/01 21:59
…歴史が動いておる!
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2012/09/30 21:58
このころは、兵農分離がまだ進んでいなかったので、お百姓さんが忍者みたいなことをするのですね。

一介の百姓から、一躍、城持ちになるなんて、この時代ならではのドリームですね。
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2012/09/30 07:29
 拝読させて頂きました。壮大な背景をよくコンパクトに収めましたね
 感心
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2012/09/30 04:14
転載しますので、また改めて拝読させて頂きます
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2012/09/30 00:58
@@かいじんたま すごい文才ですね~@@



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