Nicotto Town



亡霊 (前編)


日中は秋晴れで既に暑気はすっかり去り過ごし易かったが、日が落ちて夜に入ると
岡山城本丸の東側の真下を流れる旭川の闇は冷気に包まれた。

秋の夜の静寂に包まれた、本丸御殿で少し肌寒さを覚えながら、杯を手にしている
この岡山城の城主で、備前・美作55万石の大領主、従三位権中納言・小早川秀秋は
夜が更けるにつれて鬱々として、身悶えするほどに気が塞いだ。

「かような夜には、あやつらの霊が現れる・・・」

秀秋は苦渋の面持ちで杯を口に含むとそれを手に持ったまま崩れる様に前かがみに
なった。

そして、頭が錯乱して我を失いそうになるのを、必死に押し留める様に、二年前の
情景を脳裏に思い浮かべた。

・・・

慶長5年(1600)9月15日

美濃国・不破郡関ヶ原西南、松尾山山頂、小早川秀秋陣

朝から眼下を覆い尽くしていた霧はいまや、すっかり晴れて麓や周囲の状況が
かなりよく見渡せる様になった。

最早、深い霧の中で、突如鉄砲の音が響き渡り、その後あちこちから貝が吹かれ
鬨の声が挙がり、槍合わせが始まってから既に一刻以上がたっている。

麓の方からは絶えず、鉄砲が放たれる音が聞こえて来る。

緋色に2本の釜を交差させた違い釜模様の陣羽織を羽織った小早川秀秋は
床几から立ち上がり、幔幕から外に出て麓の方を見下ろした。

この松尾山のすぐ麓では、刑部(刑部少輔・大谷吉継)の兵が少勢ながら、
寄せ手の和泉守(藤堂高虎)、丹後守(京極高知)をよく防ぎ、これを
押し戻していた。

さらにその先では、紺地に児の字を染め抜いた備前宰相(権中納言・宇喜多秀家)
の旗が、押し続けて左衛門尉(福島正則)の兵を退らせていた。

その北方、治部少輔(石田三成)が陣を構える笹尾山の麓でも、多くの旗が動き
幾筋かの煙が立ち昇り、その方角からは時折、大筒が放たれる音が聞こえた。

(・・・大阪方が押しておる。然れども、未だ形勢はいず方に傾くか分からぬ)

秀秋は思った。

・・・

「小早川殿、既に合図の狼煙が上がっておりまする! 何故、馬をお出しに
 なられませぬ! 何卒、早々に出陣の御下知をなされ御出馬候らえ」

内府(内大臣・徳川家康)から、秀秋の元に遣わされた奥平貞治が秀秋の前に
進み出て言上した。

「小早川殿、わが主とのかねてよりの約定、よもや違える様な事は御座いますまいな?」

同じく、甲斐守(黒田長政)から遣わされた大久保猪之助が言った。

「そうくどく申すな。念には及ばぬ。されど、今は仕掛ける頃合を見ておる所にて
 暫し待たれよ」

秀秋は答えた。

「恐れながら申し上げまする。今、小早川殿が万余の手勢を率いて山を駆け下り
刑部少輔の横腹に一当て致さば、刑部が陣は寡兵にて、是を突き崩すは
容易き事と勘考致しまする」

「されば、今この時がよき頃合では御座いませぬか」

「・・・」

秀秋は既に黒田長政を通じて、内府方への内応を約していた。

しかし実の所、この期に及んで秀秋はいずれに味方すべきかを未だ決めかねていた。

自分がいず方に付いたとしても、この戦、一体どちらが勝つのかがわかりかねた。

内府に味方した所で、大阪方にはまだ、毛利勢二万、土佐守(長曽我部盛親)などが
いる。

しかも、秀秋はこの関ヶ原に着陣する前、家康、譜代の家臣、鳥居元忠らが守る
伏見城の城攻めに副将として加わり、元忠らを討ち死にさせている。

(内府殿はその事をどう思し召しなのであろうか・・・)

眼下に見える桃配山の麓まで、押し出して来た家康の本陣の方を
眺めつつ、秀秋は思った。

・・・昨日、秀秋の元に大阪方の諸将が連判署名した書状が届けられた。


一、秀頼公、十五歳に被為成迄は、関白職を秀秋卿へ可譲渡事。

(秀頼公が成人するまでの間、秀秋を関白にする。)

一、上方為御賄、播磨國一円に可相渡。勿論筑前は可為如前々事。

(今の筑前名島37万石に加え、播磨一国を新たに加増する)

もし関白太政大臣(従一位)になれば、その位は今の内府(正二位内大臣)をも
上回る事になる・・・

戦たけなわの最中、秀秋は麓の激戦を傍観しつつ、腹の決まらぬままに時を過ごした。

・・・

同時刻頃、桃配山麓、徳川家康本陣

厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど・争いに穢れた国を住み良い浄土にする意)
の旗印と金扇の馬標の下、床几に腰を据えた家康は身を乗り出して、ぎょろりとした目で
松尾山の山頂を睨みすえ、歯をむき出しにして爪を噛み続け、苛立ちを外に隠さなかった。

「お味方の方々のお働き、指呼の間にてとくと見たい」

等と言って山を降りて来たが、実の所は山を降りて前に押し出して来たのは
背後が気になって、いても立ってもいられなかったからだ。

桃配山のすぐ背後に聳え立つ南宮山には総勢二万の毛利勢が陣を張っている。

その内の先手の吉川広家とは既に通じているとは云え、広家が毛利秀元率いる
主力一万五千を本陣に留め続けていられるかどうかはしかとはわからなかった。

さらに南宮山南東の粟原山には長曽我部盛親が六千余の兵を率いて陣を張り
他に長束正家、安国寺などがいた。

家康本陣の前方では、正面の大阪方の陣へ押し出した味方の軍勢が各所で
押し戻され、殊に福島などは宇喜多に数町ばかり(1町は約109m)も逆に
押し返されていた。

背後に憂いを抱え、正面を突き崩す事が出来ず、松尾山の向背は定かでは
無かった。

家康にとって合戦でこれほど追い詰められた気分になったのは、27年前、
浜松城外の三方ヶ原で西上する武田信玄に仕掛けて散々に打ち負かされ
命からがら城に逃げ戻り、城門を開け放ったまま一夜を過ごした時以来の
事だった。

如何ともし難いもどかしさに家康は焦れた。

さらに一刻(2時間)ばかりが過ぎても、目の前の状況は一進一退を繰り返す
ばかりだった。

家康は松尾山に視線を向けたが、旗が動く気配は一向に無い。

「さては、小僧めにたばかられたか!」

家康は思わず床几から立ち上がり、怒声を放った。

暫くの間、憤怒の形相を松尾山に向けていたが、やがて追い詰められた焦燥感が
家康に一か八かの手を打たせる事になった。

 
 
             (つづく)

アバター
2013/10/02 04:40
関ヶ原で西軍を裏切った小早川秀秋を憎む人は多かったでしょうね
アバター
2013/09/29 09:18
二年前の情景、おそらくとっても陰惨なものだったのでしょうね。
その時の戦で命を落とした者の霊が現れる、ということですよね?(;_:)

後編が気になるところです・・・。



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