Nicotto Town



卒業 (前編)


山北地方を日本海に沿って走る山北本線。

その全長は676キロにも及び、支線を除けば国内の在来線最長区間で
山北本線は(長大なローカル線)の異名を持つ。

その沿線にある人口11万人、山北地方では有数の都市、鷹取市。

その鷹取市街を流れる神手川を遥か南の方に続いている山々の方角に
向かって20キロほど遡って行くと支流の美奥川が合流している地点が
あり、その美奥川沿いに美奥温泉郷と言う周りを山に囲まれたささやかな
温泉街がある。

僕は去年の高2の春休みの少し前に祖母が他界するまではその温泉郷の
近くの集落に祖母と二人で暮らしていた。

・・・

美奥温泉には美奥川のすぐ側に地域が管理している混浴の共同露天風呂が
あって、そこは無料で入浴する事が出来る。

僕が祖母と暮らしていた家から、美奥温泉郷までは歩いても30分ほど、自転車なら
10分余りで行く事が出来たので、僕は子供の頃から時々、手拭い一枚だけ持って
自転車に乗りその共同露天風呂に入りに行った。

・・・

小学5年の時、11月の半ば、あの日はどんよりとした雲が空一面を覆い
風が吹いている肌寒い日曜日の午後だった。

僕はその日、手拭いを持って一人で自転車に乗り、共同露天風呂に入りに行った。

美奥温泉街の美奥川沿いの道路の脇に自転車を止め、手拭いを持って
河原の方に降りて行って浴場の入り口にある脱衣場に入り、そこで服を脱いでから
露天風呂の方に出て行く。

温泉宿が何件か並んだ道路側に面した3方は一応簾で覆われているけれど
流れの速い美奥川に面した側は開放されていて視界が開けている。

僕はかけ湯をしてから岩風呂の中に入り、人心地ついてから美億側沿いの
風景を眺めた。

川の対岸に連なっているそれほど高くない山々の落葉樹の葉が様々な色合いに
色づいて吹く風にざわめいている。

あいにくの天気だったが、それでも湯に浸かりながら見る深まる秋の眺めは
気分を和ませた。

しばらくして、僕の後から入って来た三人連れの入浴者の中に、僕とそれほど
年の変わらなそうな女の子がいたので僕は驚いた。

すぐに目を逸らしてから、ずっとそちらに目を向けられなかったけれど、僕の
通っている小学校では、見た事が無い綺麗な顔付きをした女の子で
大人の女性と変わらない位の発育した体つきだった。

その時にはたぶん僕よりは2つか3つくらい年上なのだろうと思った。

その女の子は30代位の男と20前後位の男と一緒に浴場に入って来た。

30代の方の男はその女の子の父親らしい。

30代の男には不動明王の20前後の若い方には鯉の刺青が胸から上腕部
背中一面にびっしりと彫られていた。

恥ずかしくてそちらに視線が向けられなかったけれど父親らしい男はえらく上機嫌な
様子だったが、女の子の方は、こんな所に連れて来られて、すごく困惑している
様に感じられた。

僕は子供だったし、刺青男二人の事は別に気にならなかったが、その女の子が
いる事が気になって仕方なく僕は手拭いで前を隠してそそくさと浴場を出た。

共同浴場を出てから、温泉街の中にある売店の前で販売機のジュースを
買って飲みながら休んでいる時、再び二人組のヤクザ風の男に連れられて
歩いて来るその女の子に出くわした。

その時には、少しじっくりとその女の子の事を盗み見る事が出来たが
山奥育ちの子供だった僕には少し現実離れしていると感じる位
綺麗な顔立ちの女の子だと感じた。

それからずっと後になって、僕は同じ高校に入学した新入生としてその女の子に
再び出会う事になった。

・・・

近畿地方の港湾都市に組本部を置く丸菱組は、終戦間もない昭和21年頃には
組員33人の組織に過ぎなかったが、戦後の復興期にあってヤミ市や興行などに
進出して、次第に組織が大きくなり、わずか20年足らずの1965年頃には
傘下424団体、総勢9000人以上を数える巨大組織に発展、さらに勢力拡大を
図って全国各地に進出して行った。

その頃、鷹取の街から山北本線で一時間ばかり西に走った所にある花室(はなむろ)
という漁港のある町に棚原組と言う地元ヤクザの組があったが、丸菱組若頭は
この組を山北地方進出の拠点にすべくこの組の組長に杯を与え、棚原組は
山北棚原組と名を改めた。

当時、鷹取市には三部組と言う独立組織があったが、ある時、鷹取市にある
パチンコ店のオーナーが花室に支店を出す事になり、その利権を巡って
山北棚原組と三部組の間でトラブルになった。

そのトラブル解決の為、三部組組長は組の幹部一名を同行して花室の町まで
出向いて行ったが、その帰途、夜汽車の客車内で、山北棚原組組員3名に
襲撃され、同行した幹部組員と共に射殺され、その後三部組は解散した。

その時、三部組組長と共に射殺された幹部組員が僕の父で僕はその時
まだ、生まれてすらいなかった。

その後、僕の母は鷹取市内の病院で僕を産んだが、その後、病院から失踪した。

それから1年もたたない内に、関西の都会でヤクザの愛人になってホステスを
していた僕の母はシャブで逮捕された。

1年半程で出所したらしいが、それから1年たたない内に再逮捕された時には
シャブとアルコールで心身ともにどうにもならなかったと言う。

その後、医療刑務所で就役した後、精神病院に入院していたが、僕が小学6年の
時、病院内で病死した。

僕はその時、見た事も会った事も無い自分の母が死んだ事を、こっそり偽名を
使って電話をして来た母の母親、僕の祖母にあたる人から聞かされた。

僕がその母方の祖母と話をしたのはこの時が、最初で最後だったが、話の後
泣きながら何度も孫である僕に謝り続け、僕はその時どうすればいいのか
わからず、すごく混乱したのを覚えている。

そういう訳で、僕は産まれて間もなく、鷹取市から南に離れた神手川と美奥川が
合流する辺りの集落にある、祖父母の家に引き取られそこで育てられた。

僕の父方の祖父は僕が3歳の時に他界してしまったの為に、僕には祖父に
ついての記憶が殆ど無い。

祖父が他界してからは僕はずっと祖母の手によって育てられた。

「アンタとアンタの親は違うんじゃけえ。周りがどんな風に見ようっても
アンタは自分でその事だけは忘れようったらいけんよ」

細々と畑仕事をしながら、僕を育ててくれた祖母は、穏やかで優しい気性だったの
人だったが、事あるごとに僕にそう言い聞かせた。

僕は小学校、中学校とごく普通の学校生活を送っていた様に思うが
級友の親たちの中には僕を見る目に微妙なものがあったりもしたのだろうと
何と無く思う。

朝や放課後には畑をちょくちょく手伝ったりして、特に勉強したわけではなかったが
どういう訳だか学校の成績は大体クラスで一番良かった。

僕は小学校の時から無口で大人しい性格だったけど、クラス内で幅を利かせている
悪童連中や、中学の不良連中は僕には何と無く距離を置いていて、僕に対しては
あまり何も言って来なかった。

中学の時には、陸上部に入り、中距離走を種目に選んだ。

畑の手伝いが無い限り、放課後は学校のグラウンドを走っている事が多かった。

部活以外でも集落の周りを走ったりした。

「将来は兵隊(自衛隊)に入るんか?」

一度集落を走っている時、畑にいる近所の爺さんに、そう聞かれた。

「兵隊?なして?」

と聞くと

「いつも駆け足ばあ、しよるけんの」

と爺さんは答えた。

中学を卒業すると僕は鷹取市内の公立高校に進学した。

そして、小学5年の時に共同露天風呂で会った女の子に再び出会う事になった。

アバター
2014/04/01 08:58
いつもの要領で校正しておきましたので、問題のある場合は思うしつけください。お忙しい中での寄稿に感謝いたします。
アバター
2014/03/29 12:35
ぐいぐい引きこまれました。

>「アンタとアンタの親は違うんじゃけえ。周りがどんな風に見ようっても
 アンタは自分でその事だけは忘れようったらいけんよ」

この言葉、まっすぐに本質をついていますね。
続編が楽しみです。
アバター
2014/03/29 12:33
ふむ、同じ高校かあ。縁やな。^^



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