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今年は感想を書く訓練なのだ


三輪の山里(峰法寺口の合戦 その1)

1.戦働きと恩賞

これは”茜の吹き流しの指し物”を、木に巻き取られて難儀した武士の物語である。

この指し物とは『旗指物』を指すが、これがどれ程の物であるかを、初めに語っておかねばなるまい。

戦国時代の戦働きとは、主君から文書により催促されて戦地へ赴き、そして到着した事を証するその文書の上申により始まるのだ。

文書を受けた主君は家臣に命じ、催促の通り着陣したかどうか確認の上で『承了』と記入させて、これを返却する。

このような文書を『着到状』と呼び、武士達は戦働きの請求に欠かせない重要な証拠として保管した。

次に戦働きとは、どのようにして証明されるのかを話そう。

まず敵将の首、これは持ち帰ると首実検がなされて、その働きの大小が量られ証明される。

その他、一番槍や殿(しんがり)など、様々な働きの証人がいて初めて、『着到状』を持つ武士は恩賞を請求する事ができるのだ。

ところが、戦場では敵や味方の区別はおろか、戦働きする武士個人を特定するのは並大抵な事ではない

そこで登場するのは、鎧の背中に取り付けた金具に立てて背負い、自己の存在を示す『旗指物』である。

この指し物(旗指物)について、後北条家の発給した『着到状』に”一本、指物、四方竪六尺・横四尺、持手具足・皮笠”とある。

これは縦六尺横四尺(約縦180㎝x横120㎝)と大きいため、旗を従者に持たせた参陣を求めた例である。

通常の鎧につけて背負うものは、動き回ることを考え縦三尺横二尺位が適当であるが、様々な形や大きさの物もあった。

この旗の形や図柄は、各自趣向を凝らして描かれ『着到状』に明記されており、君主側の作成する着到帳にも記載される。

封建社会は、こうした御恩(恩賞)と奉公(戦働き)の仕組みで成り立っており、指し物の役割は計り知れない。


2.若田原

さて、これからは、指し物を木に巻き取られて難儀した、武士の戦ぶりを語ろう。

この男の名は、赤石豊前守盛時といい、西上野の旗頭である長野信濃守業政に仕えていた。

業政は榛名山の中腹に城を構え、周辺地域の諸将に娘を嫁がせて縁を結び、まとめ上げていた。

その居城は箕輪城と呼ばれ、業政に従う家臣・同心どもは箕輪衆と呼ばれた。

業政晩年の頃になると、甲斐の武田信玄は北信濃まで進出し、越後の長尾景虎と争っていた。

しかし、信玄は越後への侵略は難しいと判断したのか、景虎との戦の合間に、西上野へ侵略の手を伸ばして来る事になる。

これは板鼻とその周辺にて、武田家と二度三度の戦があった時の話である。

上信国境の余地・星尾・内山峠を越えて、西上野へ侵入する武田勢の知らせが箕輪城へ届いた。

武田勢が人見原を超えて、安中方面へ向かう知らせを受けると業政は、出陣を命じた。

雉郷、板鼻城に兵を入れ、業政は住吉城にてその後の知らせを待った。

すると信玄は、安中・和田の二方面へ手勢を分けて対抗させ、後詰めを絶って来た。

さらに板鼻城の物見から、諏訪法性旗が板鼻と碓氷川を挟んだ南岸を東へ進んで来るとの知らせが入る。

「よし、藤塚で迎え撃つ事になろう、雉郷、板鼻へ使いを出せ」

地の利を知る業政は、碓氷川を堀と見立て、渡りくる武田勢を迎え撃つ、予定の戦術に打って出たのだ。

一方の信玄は、板鼻の真南を通り過ぎ、本陣を片岡丘陵の北端に位置する、丘の中腹に陣を構えた。

ちょうどその辺りは、川を挟んで北側に源氏の守り神である八幡神社を見据えていて、板鼻方面は北西に臨む位置にある。

迎え撃つ箕輪衆は、板鼻城の東方に位置する、碓氷川河岸段丘上に広がる若田原に陣を敷いていた。

川を隔てて対陣する武田勢8千に、箕輪衆3千と劣勢であるため業政には、初めから決戦に及ぶ戦術などなかった。

碓氷川を堀に例えて、これを超えてくる軍勢を少しでも多く打ち取り、いずれは箕輪城へ引き籠る策なのだ。

武田勢の先手衆が、争う様に渡河を仕掛けてくる。これより合戦の火ぶたが切られた。

初戦では迫り来る武田勢を、果敢に押し返す箕輪衆であったが、新手が入れ替わり寄せて来ると次第に劣勢となった。

この時業政は、鼻高に陣取った諏訪法性旗の動きを見て潮時とばかりに、帰陣を知らせる貝を吹かせる。

「これより予定のごとく、箕輪へ引き退くが、殿の役は如何いたそう?」

先手を務めた青柳・下田等の諸将は疲弊しており、主力部隊は敵の追撃を受け撤退中である。

家臣どもは探りあうように互いの目と目を見合わせ、しばし沈黙がながれる。

「その役、それがしが仕ろう」

つづく

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2017/11/19 23:44
西郷隆盛は山形県酒田市や鶴岡市では人気あるんですよ。戊辰戦争後の酒田の恩人というような位置づけですかね。
伊達政宗もいいですね。慶長遣欧使節での政宗の野望が最近のテレビで放映されていました。ずっと幕府打倒を夢見ていたんですかね。
炎立つは昔大河ドラマでありましたね。確か半年間だけの。奥州の古代史は見ごたえがあります。私の近くの遺跡からも関東系の土師器・須恵器が出土していて関東各地から鎮兵が来ていたことが分かります。各地
に残る地名も鎮兵の出身地の地名からきているものがたくさんあります。豊かな関東から寒い東北へ。辛かったろうね。北海道の開拓と違って人口の多い奥州。たくさんの反乱が起きました。悲しい歴史です。
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2017/11/19 23:16
kamoさんコメントありがとうございます。
まさにその通り、大河ドラマを題材にして話すってのが良いかもしれないですね。
来年は西郷なのであんま興味ないけど、現行大河と並行して今月は独眼竜正宗で行こうぜとか。面白そう。
あとは、欧州だと炎立つでしょうか。渡辺謙ちゃんシリーズだけと。
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2017/11/19 02:04
初めまして。歴史サークルから来ました。よろしくお願いします。なかなか研究熱心で文章力も抜群ですね。面白く読ませていただきました。今後を楽しみにしています。
ちょうど今、大河ドラマ女城主井伊直虎で井伊直政が活躍しているので、箕輪城は旬な題材ですね。のぼうの城でも有名ですし、日本百名城なので行きたいと思っているのですが、どうやって行けるのか。東北からだと遠すぎる。こういう話もサークルでできればいいね。



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