Nicotto Town


春巻きのトキどき日記


太陽の耐用年数

今日のお題は「太陽」です。

(この記事正確に保存されていなくて途中で切れていました。すみません)

太陽といえば地球から一番近い恒星、
私たちの日常生活になくてはならないありがた~い天体であります。

実際に見てみようとするとまぶしくて、遮光なしでは丸いかどうかもわからない存在ではありますが、お絵描きや絵文字の記号としては赤い丸に放射状の光線ですっかりおなじみですね。☀

この表現は国ごとに違うらしく、日本は赤い丸で表現しますが、黄色かったり白で表現する場所もあるそうです。
なるほど、確かに実際には赤くは見えない。
夕焼けの赤さが太陽の印象として強くなっているのでしょうか。

このように見る人や時間によって違うものとして観測されるにもかかわらず、
とりあえず日本で一般的には赤丸ちょんちょんのイラストが「太陽」として認識される。
改めて考えるとすごいことだなあと感じます。

ちょっと話を広げますと、イラストに限らずマンガで使われる表現全般にもこれが言えると思います。
汗をかいたときの水滴が飛ぶような表現や、静かさを表す「シーン」という描き文字など、生み出されてからそれなりの時間が経っていても、現在も変わらず使われているのですよね。
これらの技法の多くは手塚先生だったり海外アニメーションだったりと編み出した人が偉大なのはもちろんですが、読む側が「これはそういうことなんだな」というデフォルメされた「お約束」を認識できてこそ成り立つので、昔から変わらずに受け継がれているということはいかに表現として最適化できているのかということなのかもしれません。
もちろん電話のジェスチャーのような現実の装置が変わってきているものもありますし、頬の赤みを表現するZやW型の線など流行り廃りはあるのですが、世代を重ねても「これは○○を表すのだ」という認識が通じるのってすごいですね。
これこそが絵の持つ力であり強みですし、マンガ好きの日本人の間で特化したものなのかもしれません。


でも、本当にこの表現の認識は合っているのだろうか? そういえば他の人と確認したことはあっただろうか?
昔は同じ本や映像を複数人で同時に観ることも多かったけれど、最近は個々のスマホや端末でマンガも動画も観ている気がする。字幕が多いのは情報を理解しやすいけれど、視覚から読み取ることはできているだろうか?
そのうち「あるもの」を表す事象について人々の認識が少しずつズレていって、なのに自分がそれに気が付かず(あるいは自分だけが気が付く)、その相違がいつしか大きな事件になる……
みたいなSF小説とかどうでしょう。

え? もうある?
(藤子・F・不二雄先生だと「ミノタウロスの皿」や「気楽に殺ろうよ」がこのベクトルな気がします)




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