Nicotto Town


天使の棲む街


甘やかな棘


甘やかな棘、になりたいと…由香里はふと、思った。
何故そんな事を思ったのだろう。

暗い窓の外は雪が静かに降り積もっている。
ここは少し古びた昔ながらの喫茶店だ。別に馴染みの店というわけではない。
不慣れな土地で人と待ち合わせをしていて、
降り出した雪の冷たさに耐えかねて手近な所に飛び込んだだけだ。
目の前に置かれた湯気の立つコーヒーの味は悪くはない。

今時珍しい銀色のミルクピッチャーに入ったミルクや
テーブルに備え付けのシュガーポットに入った砂糖には手を付けず
琥珀色の飲み物をダイレクトに口に含む。
-苦い-という味覚を舌が感じ取り脳にその情報を送る。
苦味や酸味は口に含むと危険というサインのはずなのに、
世の中には敢えてそれを好んで飲む人間がいるのだから、人間とは不思議な物だ。

由香里自身は別にブラックが好きなわけではない。
むしろ由香里は甘い物が好きなのだ。
だが、いつの頃からかコーヒーにはミルクも砂糖も入れなくなった。

そうして分かった事が一つだけある。
苦いコーヒーは口に含んでしばらく舌の上で転がしていると
苦味の中に甘味が密やかに隠されているのだ。
渋いだけだと思っていた赤ワインも口に含んでいると
渋味の棘の中に別の何かが隠されている事に気付く。

もしこれが毒だったら相当性質が悪い。
毒々しい毒なんて可愛いものだ。
苦いだけなら口に含まずに済むものを。
ただの茨の棘だけだったら手に取らずとも済むものを。
その隠された甘さに人は酔い、
薔薇の花びらの美しさを手に入れようと茨の棘に手を伸ばす。
じわじわと真綿で首を絞めるように誰かを陥れたい、とふと思ったのだ。

自分は誰を騙し、酔わせ、惑わしたいのだろう。
そんな取り留めのないような事をぼんやり考えながら窓の外を眺めていると
待ち合わせの相手らしき人影が目に入り、伝票を持って席を立つ。
会計を済ませて出て行った由香里の足音を追うように、
入り口のドアに備え付けのベルがカラン、と乾いた音を立て
やがて店内は元の静寂が戻っていた。




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