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副作用の無い抗がん剤…薬害イレッサ訴訟 3/4

2011/01/14

政界
母マサが厚生大臣時代に秘書官を務めたのをきっかけに、政界入り。大阪市議会議員を経て、1969年に母の地盤を受け継いで衆議院議員に初当選。以来、連続11期当選を果たし、国会議員生活は30年以上に及んだ。
冷戦中の1970年代には、中川一郎や渡辺美智雄、石原慎太郎ら自由民主党の同僚議員とともに「青嵐会」に参加するなど、「タカ派の論客」として鳴らし、自由民主党議員による北朝鮮訪問を実力で阻止したこともある[要出典]。
竹下登内閣で郵政大臣として初入閣し、自社連立の村山富市改造内閣では問題発言で引責辞任した江藤隆美の後任として総務庁長官、小渕恵三内閣では建設大臣・国土庁長官として入閣、第1次森喜朗内閣でも留任した。1996年は新進党元職前田正に大阪4区で破れ比例復活、2000年に自身最後の立候補で雪辱、初の小選挙区勝利を果たした。

拉致議連
1997年に中山ら自由民主党の議員が中心になり設立された、北朝鮮による日本人拉致問題の解決を目指す「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟」(「拉致議連」、現「北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟」)の設立メンバーとなり、さらに同議連の会長を務めた。当初は、拉致被害者の横田めぐみの両親と衆議院議員会館で共同会見を行い「拉致問題が解決するまでは北朝鮮に対して食糧支援を行わない」と発言するなど、「タカ派の論客」らしい強硬な姿勢を見せていた。
しかし、1997年11月に北朝鮮の平壌を訪れ帰国した後には、急遽各方面に日本人拉致事件そのものを否定する説を発表したり、翌年には拉致議連会長のまま日朝友好議員連盟の会長に就任し、「拉致問題は幽霊のように実体のないもの[1]」、と日本人拉致事件そのものを否定したうえで、「まず北朝鮮との国交正常化を行った後に拉致問題の解決を行うべき」と発言するなど、拉致議連の会長自らが問題そのものを否定したり、問題解決を妨害する消極的な言動を行った。
この中山の異常な言動が議員連盟のみならず政界内や多くの国民から強い批判を浴びただけでなく、「タカ派の論客」が、北朝鮮訪問を機に突然変節したことから「北朝鮮から何らかの形で圧力を受けたのではないか」という疑念を呼んだ。その後中山は「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟」と「日朝友好議員連盟会長」の両会長を辞した。
その後2002年には、勲一等旭日大綬章を野中広務らと共に叙勲されたが、「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟」と「日朝友好議員連盟会長」時代の異常な言動などから批判の声が上がった。

政界引退
2003年に、母から譲り受け長年保ってきた地盤を長男の泰秀に譲り、突如政界から引退したが、「北朝鮮による日本人拉致問題に絡んだ疑惑の責任を取った引退ではないか」という意見もある。

拉致問題解決への妨害
元拉致議連会長
かつては「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟(旧拉致議連)」の会長であり、北朝鮮に対して「拉致問題が解決するまでは食糧支援を行わない」と発言するなど強硬な姿勢を見せていたものの、1997年11月の平壌訪問以降は、急遽各方面に拉致事件否定説を発表し、その翌年には拉致議連会長のまま日朝友好議員連盟の会長に就任するなど矛盾する言動を取りはじめ、救う会はもとよりマスコミや当時の中大生を救う会などから大きな非難を受けた。
この言動についてかつての盟友の石原慎太郎から問い質された際には、「(拉致問題は)あんたが考えているほど簡単なものではないんだよ」とにべもなく答えている(この発言は後述のコラムに取り上げられた)。

家族
父は元参議院議員の中山福蔵、母は厚生大臣を務めた中山マサ。兄は元外務大臣で前衆議院議員の中山太郎、長男は前衆議院議員の中山泰秀。

wikipedia

母親の代から厚生族ですね。
母親は中山マサ
日米安保条約締結時の厚生大臣。

兄の中山 太郎は、宮崎勤の家に家宅捜索が入った日から外務大臣に就任し、湾岸戦争当時の外務大臣ですね。
青嵐会で拉致疑惑で、地下鉄サリン事件の時の総務庁長官か、なるほどね。


で、中山泰秀は、自民党清和会で、 電通で、NOVAと橋下知事のお友達で、降伏の科学の推薦を受けている小池百合子の秘書だったそうですね。

で、イスラエル議員連盟だそうで、とても興味深いです。


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