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イラン石油国有化記念日


.イラン石油国有化記念日

イランの歴史における一大転機としての、石油国有化
今から61年前の3月20日に、イランの石油国有化が実現しました。この日は、イラン石油国有化記念日とされています。イラン国民の歴史には、覇権主義への抵抗の輝かしい転換点があり、それらは発展と独立の頂点に向けた大躍進の起点となりました。イランの歴史の各ページは、永遠に残る出来事で埋め尽くされていますが、そうした重大事件にはこの石油国有化をはじめ、1906年から1911年にかけて勃発した立憲革命、1979年のイスラム革命、そして1980年から1988年にかけて起こった、イラン・イラク戦争、平和目的の核エネルギーの獲得を挙げることができます。
イラン国民が、外国の支配と闘ってきた歴史において、石油産業の国有化は一大転機であると共に、イランが政治・経済面での独立を果たしたことを意味します。1951年3月20日、イランとイギリスの外交関係において緊張が続いた後、ついにイギリスの植民地主義の手が、イランの石油の歴史から退くことになりました。この日、当時のイラン国会は国内外にの数多の謀略を振り切って、石油国有化法案を可決しました。この石油国有化法案には、次のように述べられています。「イラン国民の幸福、そして世界の平和のために、イランの石油産業は全国において、一切の例外なく国有化される。即ち、油田の発見、石油の採掘そして利用という全てのプロセスは、イラン政府の管轄のもとに置かれる」

英植民地主義政策をも狼狽させたイランの石油国有化
イランの石油産業の国有化は、イラン国民の植民地主義との闘いの歴史における一大転機であると共に、中東地域の情勢変化の歴史における転換期でもあります。今は亡きエジプトの指導者ジャマール・アブドルナセルは、エジプトのスエズ運河の国有化を、イランの石油の国有化に倣って実現しました。イランの石油産業の国有化が、地域・国際レベルで相当の影響力を有していたことから、この革命的な動きはイギリスの植民地主義の政治家らに大きなショックを与えました。イギリスの政治家らは、イランの石油の国有化を阻止すべく、数多の謀略を試みました。そして、その目的が果たせないと悟るや、今度はその実施を阻もうとしたのです。イランで、石油が国有化されるという重大な変革により、中東地域におけるイギリスの植民地主義政策は危機に追い込まれ、イギリスは中東から撤退をせざるを得なくなりました。

イランの石油資源に目をつけた欧州の列強
石油の発見は、産業に大きな革命を起こしたと同様に、黒い純金と呼ばれるこの天然資源を有する国々の政治・社会面での変革を誘発し、さらにそれらの国の経済構造にも、大きな変化をもたらしました。イランは、油田が発見される前に既に、政治、戦略的な点で重要な立場にあったことから、植民地主義国の欲望の標的となっていました。北からはロシアが、南からはイギリスに狙われ、さらにそれ以前にはオランダやポルトガルが常に、あわよくばイランを支配しようと隙を狙っていました。イランは決して直接的に他国の植民地支配下に置かれることはありませんでしたが、歴代のイラン国王のふがいなさや、外国の植民地主義政策により、イランは進歩発展から取り残されてしまいました。

石油が発見されたことから、地理的、政治的な面でのイランの重要性が高まり、当時のソ連やイギリスは、イランに対する政治的、軍事的な直接介入に食指を動かすようになり、後にはアメリカもこれに加わりました。ロシアは、イランでの石油の採掘や輸出の利権を主張し、イギリスもまたイラン南部の原油の採掘と輸出を引き受けました。こうしてイランのふがいない王朝と、複数の植民地主義国の間で、石油の採掘と輸出に関する、イランにとって屈辱的な協定が締結されたのです。この間に、イギリスはイランの石油の採掘と輸出の利権を獲得する上で、より優位な立場にありました。特に、イランの原油が多く埋蔵されている地域が南部の豊かなペルシャ湾岸地域に集中していたことから、イギリスがイラン南部の豊かな地域に進出し、イラン国民の富を略奪する上で絶好のチャンスが整ったのです。イランの進歩発展の原動力となり、イランの外国への従属を断ち切る材料となるはずだった石油は、イランが国内の専制君主や国外の植民地主義者の圧制に甘んじる要因になったのです。

イギリスは、イランの石油を採掘し、輸出することに対して僅かな代金を支払ったに過ぎませんでした。第2次世界大戦において、イランの持っている地の利は、ナチス・ドイツ軍に対抗するソ連を助けようとする連合国にとって極めて重要であったため、イランは連合国にとっての勝利への橋と呼ばれています。イランは、既に当時、中東最大の産油国となっていました。このことは、第2次世界大戦における連合国の勝利に、イランが寄与したことを如実に物語っています。しかし、この連合国の勝利は、イランのインフラ構造の崩壊と、穀物倉の蓄えの略奪、イラン国民の貧困化と不幸という、イランにとっては犠牲を伴うものでした。

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2012/03/20 16:36


イラン、植民地主義者の駆逐を開始

こうして第2次世界大戦後、イランの石油産業から植民地主義者を駆逐しようとする国民の闘いが、本格的にスタートしました。
イランの石油国有化には、モハンマド・モサッデグと、高名な聖職者カーシャーニー師という、政界の2人の重要人物が大きな役割を果たしました。特にカーシャーニー師は、イラクにおけるイギリスの植民地主義との闘争の経歴を有しており、イランの石油国有化が実現されるまでこの闘争を続けたのです。この闘争により、モサッデグ氏は民主的で合法的な政府を発足させました。イギリスは、イランの内政と国際舞台において、イランの石油国有化法案の実施を阻止すべく、あらゆる手段を尽くしました。イギリス政府が、イラン国民の富を略奪するために行った措置としては、イランの石油産業から外国人の専門家らを引き揚げさせたこと、イランの原油に対するボイコットなどが挙げられます。また、イギリス政府は国際舞台で、イランの石油産業の国有化運動に対抗するため、オランダ・ハーグにある国際刑事裁判所に提訴し、イランとイギリスの石油企業の間で締結された協定を根拠に、イランの石油国有化の違法性をアピールしようとしました。しかし、これらの2つの作戦は、いずれも手痛い失敗に終わりました。
一方、国内では外国人技師らの撤退により、イラン人の専門家らが、石油の採掘と輸出を続行し、イランの石油産業からイギリスを首尾よく駆逐しました。イランが原油輸入国に対し値引きを行なう政策を取ったことにより、イランの石油のボイコットもまた頓挫しました。また、世界においても、国際刑事裁判所で当時のモサッデグ首相が、法的に強い論拠によりイラン側の正当性を主張したことから、イランに有利な判決が下されました。イギリス政府はこの判決により、イラン国民に対する政治的な敗北という苦杯を喫したのです。しかし、こうした動きの中で、次第にアメリカによるイランへの内政干渉が始まっていました。

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2012/03/20 16:36

石油国有化後の思わぬ横槍

イランの一部の政党は、アメリカ寄りに傾くことでイギリスの覇権主義政策と、ソ連の脅威を回避できるものと思い込んでいました。しかし、それから時をおかずして、アメリカ政府の植民地主義的な体質が、姿を現しました。イランにもはや直接内政干渉が出来なくなったと考えていたイギリスは、アメリカ政府の助けを借りて、まずイランの石油国有化運動の主導者らの間に対立を起こすことを手がけ、それからアメリカに同調して1953年8月のクーデターを画策、実行に移しました。このクーデターにより、石油の国有化という成功に酔いしれていたイラン国民は、思わぬ苦杯をなめることになったのです。



イラン国民、遂に王制を打倒

イラン国民の植民地主義との闘いの歴史において、イランの石油国有化運動が一大転機となったように、1953年8月のクーデターも、アメリカとイギリスが世界で起こした他国への内政干渉の歴史となっています。我こそは世界における自由と民主主義の先駆者だと主張してやまない国々が、1953年8月にクーデターを起こし、25年に及ぶモハンマド・レザー・パフラヴィーの独裁を無理やりイラン国民に押し付けたのです。しかし、この措置により、イラン国民はさらに団結を強めることになりました。イランの人々は遂に、イランに対するアメリカの覇権主義を断ち切ったのみならず、イランで長年続いてきた王制を打倒し、イランの歴史に新たな1ページを開いたのです。

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2012/03/20 16:35

イランの石油国有化と平和目的での核技術の獲得の共通点

イランの石油が国有化された当時の状況は、イランを取り巻く現状、特にアメリカを始めとする西側諸国が平和目的での核技術を剥奪しようと、戦略的にイランを脅迫し、制裁を行使している状況に類似していると言えます。イランの石油産業の国有化を目指す運動が勝利を収め、またイランが平和目的での核技術の獲得に成功したことは、国民の意欲と能力を拠り所としています。イランは、多大な圧力や制裁に屈することも、核技術を既に保有する外国の助けを借りることもなく、国内に存在する能力を拠り所として、現代世界で最も重要かつ難しい技術を獲得するという段階に至ったのです。
石油国有化運動においても、イラン人技術者らはイギリス人技術者らを締め出し、石油の採掘から消費、そして輸出に至るまでの全ての段階を管轄・運営することに成功しました。イギリス政府は、イランの石油が国有化される前、イランはイギリス人の技術者なくしては1日たりとも自国の石油産業を管理運営できない、と豪語していたのです。
この大きな出来事は、自由を求める世界の諸国民に事実として知られることとなりました。イランの人々は、理不尽な植民地主義国家の前に立ちはだかり、石油の国有化の実現により大きな勝利の栄冠に輝いたのです。そして、これこそは、イラン国民の明白で合法的な権利であったことは言うまでもありません。

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2012/03/20 16:35

イランの石油国有化、諸外国の見本に

原子力エネルギーの問題においても、イラン国民は原子力エネルギーの獲得という明白な権利を擁護し、外部からの重圧や脅迫行為の中、決してその権利を断念することはありません。アメリカのような理不尽な大国が、各国の独立性を正式に認めず、他国に内政干渉しているような世界においては、一部の国にとって独立性の維持は夢物語と化しています。イランにおける石油の国有化を目指す運動は、世界各地で自由を求め、植民地主義に反対する組織や集団にインスピレーションを与えました。モサッデグ政権の基本方針は、アメリカとイギリスのいずれにも利益を与えないというもので、中立と非同盟の原則に基き、植民地支配下に置かれた国々にとっての根本的な解決策及び戦略として、独立を目指す多くの指導者らの注目を集めました。
非同盟諸国会議が発足したのは、イランの石油国有化そして、アメリカとイギリスのいずれにも利益を与えないとする思想が及ぼした影響の結果といえるものです。イランが原子力エネルギーを獲得しようとする立場をとっていることも、イスラム教徒の諸国民や、世界で抑圧されている他の地域の国民が、自信をつけるきっかけとなりました。イランが石油国有化運動と、平和目的での原子力エネルギーの獲得に成功する中で、地域のイスラム教徒の諸国民は常に、世界の理不尽な大国に抵抗するイラン国民を称賛し、自らが倣うべき見本としているのです。




2012年 3月 19日(月曜日) 15:26
イラン石油国有化記念日
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