Nicotto Town


としさんの日記


「山男とサーファー」11


 六

 四日間荒れ狂った天候も、五日目の払暁を迎えるころになるとピタリと止み、その神々しいまでのシルエットをくっきりと浮かびあがらせて、ナンガは聳え立っていた。
 俺は早速、M君と二人で、ナンガの全容を観察にでかけた。
 登攀ルートの確認と、M君から教わっていたピオレ・トラクションを、実際に試してみるためであった。
 メスナーのコピーを目指していた俺が、彼の方式を諦めて、より確実なクライミングを採用したのも、M君の存在があったからである。彼の教えてくれた最も貴重な登攀方法とは、ピッケルとアイスハンマーを使用した、ピオレ・トラクション法であった。
 フランス人、ヴァルターセキネルの考案したといわれるこのピオレ・トラクションは、歴史を遡ると、すでに十八世紀後半のヨーロッパアルピニズムに、端を発していた。
 モン・ブランをはじめとするアルプスの山々が次々と征服されるにつれて、人々はより困難な登頂方法を求め、考案したのである。
 そこでは、頂上に達するという行為そのものよりも、そこに至るまでの過程が重要な意味を持つこととなった。そのアルピニズムは、二十世紀の山男たちに引き継がれ、登攀用具は次々と発明され、改良されていった。
 やがてヨーロッパでのアルピニズムは、遥かヒマラヤまで持ち込まれることとなったのである。
 もともとアルプスで生まれ育まれた登攀技術は、燎原の炎のように、瞬く間に世界中に広がり、主流と成すに至った。

 堅牢な青氷の氷壁にステップを切るのは、容易なことではなかった。通常の登攀技術では、やたらと体力の消耗を激しくさせる。氷壁をカッティングし、テラスを確保してから、カラビナとザイルで体を保持する。時にはアブミを使用したりして足場を作り、ハンマーでピトンを打ち込みながら、上へ上へと攀じのぼっていくのである。それも、パーティーを組む場合には特に必要であったが、今回のような単独行では不要であった。
 トップを行く者は、常に滑落の危険が伴っていた。それでも信頼できるパートナーたちと共にパーティーを組んでいれば、たとえトップの誰かが墜落しても、次に続く者が確保者として墜落したパートナーを救うことができる。しかし単独では、もう絶望の淵に身を委ねるほかなかった。
 そのために安全で確実な技術、しかも出切るだけ早く登れる方法、を模索していた俺は、巧みなアイゼンワークと氷壁へのアンクラージュ(打ち込み)を、M君より伝授されたのである。それがピオレ・トラクションであった。

 できるだけ切り立った氷壁を選んだ俺たちは、それぞれ二つの場所でトライした。
 純粋なピオレ・トラクションではザイルの使用が不可欠であったが、パートナーを伴なわない単独では、それも不要であり、応用といったら良いのか、かなり変則的な方法を用いらなければならなかった。

 「思いきり振り上げて、たたき込んで下さい」
 M君は、短い柄のメタルシャフトのピッケルとアイスハンマーを交互に突き立てて、登って行く。十二本爪のアイゼンで確実に足元を確保しておいて、突き立てたピックの柄の部分まで、一気に胸を持っていった。次にセルフ・ビレー(自己確保)を取るために、ピックを抜いて足場を切り、その上にアイゼンをのせる。足元を固めてから再びピックを打ち込み、今度はアイスハンマーを引き抜いて、アイスハーケンを打ち込む。アイスハーケンにボードリエ(安全ベルト)から、カラビナのついたザイルシュリンゲ(ベルト)を連結させる。
 3点で支えるセルフ・ビレーは、たとえ足元が崩れても、三本のベルトにより墜落はしない。そこで一時休憩して体力を回復し、次のピッチに向かうのである。




Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.