Nicotto Town


としさんの日記


「山男とサーファー」12


 「やってみれば、そんなに難しくはないでしょう」
 「常にバランスを保つことに注意しなければならないから、これはかなり習熟を要する技術だな」
 「大丈夫ですよ。もう二、三回来て練習すれば、ある程度のタイミングもつかめるし、君だったらできますよ」
 「アイスハンマーを引き抜いて、ハーケンを打ち込む時だけが、多少不安だな。ピッケルだけで支えているんだから、突風が来たときはちょっと煽られて、バランスを崩しそうだ・・・」
 「それなら一層のこと、アイスハンマーを二本使ったらどうですか? ピッケルとの三本使用だったら、意外と楽かもしれない」
 「ハーケンは?」
 「オーバーハングなどで使用したらどうですか。場合によっては、アイスピトンやアイススクリューを持っていって、捩じ込んでおいたら、そこでビバークできるかもしてない」
 「氷壁に打ち込んでおいて、ハンモックで寝るか」
 M君は笑いながら頷いた。


 天候の豹変と雪崩の危険性など、たとえ本人が致命的なミスをしなくとも、自然の気紛れさは突如として牙をむく。どのような不測の事態に備えた行動であろうと、それらからは逃れることはできないのだ。まして、今日のような好天になれば、太陽の陽射しによって暖められた氷壁が、いつ崩れ落ちるか分からない。俺はできるだけ、氷壁ではビバークしないつもりでいた。

 「戻りますか?」
 M君が立ち上がった。
 俺は、コッハーのコーヒーの残りを捨てて、立ち上がった。

 氷河の上を踏みしめて歩く二人の背中を、汗が伝って流れる。
 昨晩までの荒れようが、嘘のようであった。
 絹雲は遥か上空を流れ、稜線はしだいに金色に染まりつつあった。
 ディアミール氷河のいたる所に、バックリと口を開けているクレバスがあった。俺たちはそれを避けながら、二キロ程下って行った所で、突如背後で、大音響が轟いた。二人とも驚いて振り返ると、氷壁がみごとに崩れ落ちていく。
 先程までそこにいた場所が、何百トンもの氷塊に、すっかり埋まっていった。
 俺とM君は顔を見合わせた。

 「今度は別のところでやりましょう」
 M君はニヤリと不敵な笑いを浮かべて、踵を返した。


 七

 ベースキャンプに戻ると、一番慌てていたのが従弟のS君であった。
 T氏とYさんはそうでもなかったが、それでも、突然崩れ落ちた氷壁に、肝を冷やしたようだった。
 「危なかったですね。もう三十分とどまっていたら、巻き込まれる所だった」
 S君は、うわずった調子で云った。
 「運ですよ。この場合、いい方に解釈していいんじゃないんですか」
 M君は事も無げに云った。動揺している様子は微塵も見せない。却って俺の方が自然の威力を見せつけられて、多少ナーバスになっていた。
 「君たちが出発してから、S君は双眼鏡で、僕は1200ミリの望遠レンズで、君たちの行動やナンガの状態を観察していたんだ」
 T氏は、俺のラフマのキスリング(リュックサック)を受け取りながら云った。
 「ナンガのあちこちから立ち昇る水蒸気に、Yさんが危険だな、と云ったんです。トランシーバーを持たずに出発したので、すぐにそこを離れるよう、信号弾を発射しようかとも思ったんですが・・・」
 S君は、チラリとT氏を見た。
 「まあ無事に帰還したんだから、いいじゃないか。夕食にしようよ」
 T氏は俺の肩を叩きながら云った。

 メタクッカー(固形燃料)の炎に浮かびあがる五人の顔は、思い思いの感慨に耽っているようで、能面のように無表情に黙りこくっていた。




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