Nicotto Town


としさんの日記


「山男とサーファー」14


 「ポール・ベールに話を戻すと、彼がまず最初に気付いたことは、減圧室の空気を徐々に抜いていくことで、自由に高度を設定することができたことから、その中に人を入れて放って置くと、全く高所と同じようにコロリといってしまうが、その中で酸素を吸わせれば、驚くほど回復するってことが判った。二番目には、人の血液に注目して、様々な気圧を作ってそこでヘモグロビンと酸素の関わりを調べ、酸素へモグラビン解離曲線というグラフを作りだした」
 「それらを簡単に説明してもらうと、どういうことになるんですか」
 俺はYさん以上に、話に引き込まれていた。
 「つまり、人の躰(からだ)というのは、実に複雑で又単純明快に出来ているということを云いたいんだ。複雑なという意味では、躰には様々な役目を与えられた器官があり、それぞれが独立して働いている。もちろん他の部署との連繋プレーを保ちながらね。人体の司令塔である脳の働きが活発であり、五臓六腑がすべて順調に働けるのも、赤血球が酸素を躰のすみずみまで送ってくれるからであり、栄養分も蛋白質はアミノ酸を、脂肪は脂肪酸に、窒素を含んだ食べ物はアンモニアへ核蛋白質はリン酸や尿酸を作り出してくれて、いらないものは体外に排出してくれる。それらが全く自分の意識外の所で行なわれ、チームワークが自動的に保たれているのだから、それらを生理学的に理解しようとなると複雑だと思う。たとえば凍傷なんかに罹る例を見ると、重要な臓器に酸素が集中して送られるようになると、末端の部分、つまり手足の血液が循環しにくくなり、凍傷に罹ってしまう。水泳などで、唇や、爪が紫色になり、震えたなんてことみんなの記憶にないかな。つまり生命の維持の為に、酸素が自然と重要な臓器に集中してしまう。優先順位が作られてしまうんだね。それらを管理しているのは、私たちの意思や意識などなどではもちろんない。知らぬ間に、ひとりでにやってくれているわけだ」

 皆の間に、紙コップに入れられたウォッカが配られた。M君が気を利かして入れてくれたものである。酒の肴は、アメリカ産のビーフジャーキー。これもM君の持参したものである。

 T氏は旨そうに一口飲むと、ニコリと笑って話を続けた。

 「ところでやっかいな問題もあるんだ。ここでは病の問題は一時置いとくけど、火災などで有害な一酸化炭素を多量に含んだ煙に巻かれたりして、よく窒息死を起こしてしまう、ということが知られているが、実は中味はもっと深いんだね。人体にあるヘモグロビンの鉄分は、酸素よりも一酸化炭素の方がより結びつきやすくできていたりする。炎に焼かれなくても、最近の建築物には新建材が多く使われている為に、煙による一酸化炭素中毒で亡くなる方が非常に多い。その苦しみぶりは想像を絶するね。今はほとんど見られないけど、私らが子供の頃の炬燵は炭火や練炭だった。それで、子供や老人が寒いからと中まで潜って、一酸化炭素中毒で亡くなった例がものすごくある。いくら意思や意識に関係ないといっても、有害物質はそんなに体内にとりこんで欲しくないと思うけど、人体の構造がそういう風に出来ているのならば、注意しなくてはね」

(『岩と雪』「高みをめざせ高所への挑戦物語」チャールズ・S・ハウストン著/中島道郎氏訳・山と渓谷社/参照)

 実際、日本のトップクライマーであった、山岳同士会の小川信之氏が、一九七八年八月一日、北アルプスの横尾本谷で、高度障害によって死亡するという不幸な出来事があった。

 一九七〇年冬のアイガー北壁直登ルートの成功や、モンブラン・ブルイヤールの赤い北稜冬季初登攀、アンナプルナⅡなど、数々の実績を残した、その小川氏がまだ33歳という若さで、穂高連峰の涸沢本谷橋水場、海抜千八百㍍という低高度で、過労による心臓麻痺により、長野県警山岳遭難者救助隊による手当てのかいなく死亡した。

 モンブランやヒマラヤで高度順応できても、長い間登山から離れていれば、低所でも酸素欠乏症によって死ぬということが、はからずも証明されたことになる。

(『岳人』「北ア・涸沢本谷橋サイドの悲劇」出海栄三氏・中日新聞東京本社/参照)




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