Nicotto Town


としさんの日記


「山男とサーファー」23


(十一)

 あいつは孤児だった。
 俺も似たような身分だ。親父の顔もお袋の顔も覚えていない。ただ、俺には母方の祖父と祖母がいた。そして縁の薄い従兄弟のS家。
 あいつはサーフィンで、俺は山で、友ができ、一人前の人となれた。
 祖父母が亡くなって、10か11歳で養護施設で出会い、親しくなった。
 見知らぬ足長おじさんたちのおかげで、学校にも行けたし、まともな就職先に勤めることもできた。
 名も知らぬ、善意の人々に支えられて、あいつと俺は、更なる生きがいを見つけた。


 頂上まであと五百㍍位だろう。
 このまま進めば、登頂は成し遂げられる。と思った事が、山の神の怒りに触れたのだろうか。ジルバーザッテルを過ぎ、突如として天候は悪化し、風速五十㍍近くの嵐になった。
 辺りは真っ白で、数センチ先も見えぬ。
 俺は必死になって新雪層に穴を掘り、暴風と本当に必死の戦いとなった。
 新雪に穴を掘るのである。これが元で、俺自身が表層雪崩を造りだし、自分自身も巻き込まれて滑落するかもしれない。
 しかし五十センチほど掘って、ナンガの岩肌が現れた。
 俺は”しめた”と思ったが、アイスピトンを打ち込むだけで精一杯で、とてもテントを張る余裕などなかった。
 自分自身の体が吹き飛ばぬように、カラビナとハーケン、ピトンとザイルだけが、俺の命を繋ぎ止めていてくれる。
 気温がマイナス50度でも、並の風であったらさほど気にならないが、自分の体温がどんどん下がってゆき、眠気が襲ってきた。
 雪洞などと呼べる代物ではない。自分の身と荷物を守るだけが精一杯だった。
 少し暴風が収まって、穴を広げ、小さなツェルトを張るのが、こんなにも苦痛を伴い、体力を消耗し、よもやこの時点で前進を阻まれるとは思わなかった。

 頂上まであと僅かであったが、ツェルトの中で決断を迫られていた。
 高度計は八千㍍を越えている。
 これはまず間違いのないことだろう。
 両手、両足が麻痺し、やっとの思いで暖をとる。
 酸素ボンベも2本使い、新雪を溶かして飲み、吐いては飲みの繰り返しだった。
 少々食わなくとも、死ぬことはないが、水分を摂らなければ血液が濃くなり、ドロドロとした血液では、ヘモグロビンが、酸素を心臓や脳に供給してくれなくなる。

 ”友よ! 俺はまだお前の所に行くつもりはない。やるべきことがまだ残されている”

 俺はトランシーバーのスイッチを入れた。
 ベースキャンプには小型の発電機が置いてあり、常にON状態にある。
 「ベースキャンプ聞こえますか?」
 ザーザーと雑音はかなり入ってくるが、M君の声がはっきりと聴き取れた。
 「こちらベースキャンプ。風が強そうですね。アタックしますか? どうぞ」
 「頂上まであとわずかですが、断念します。こちらは視界悪く、ボンベも残り少ないです」

 言っている間に、ツェルトの前後左右が急に明るくなった。
 表層雪崩だ。




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